悪文のほとんどは不安に根を発している。疑いのないところである。
(『小説作法』スティーブン・キング/訳:池 央耿)
「余計な装飾品」は「自信の無さ」の裏返し
じゃらじゃらと全身にまとったブランド品は自信の無さの裏返し――なんだか遠い昔に聞いた覚えのある箴言である。この手の話は、往々にして「人間として中身がないから、高級ブランドアイテムで着飾って虚勢を張るのだ」といったオチがつく。いまとなっては落語のように語り継がれてきた古典的な消費社会批判である。ボードリヤールみたいな戦後マルクス主義思想に系統している人間や、90年代日本の”評論家”が好みそうな議論ではないだろうか。
そうはいっても、「自信がないから上っ面を取り繕うとする」という批判構造はけって陳腐なシロモノではない。「虚勢」は、日常の世界だけでなく、創作の世界でもしばしば問題を起こしてしまうのだ。なかなかに厄介である。
では、創作の世界における「虚勢」とはいったい何なのかというと、今回引用させてもらったスティーブン・キング御大のお言葉である。
「……副詞は頼れる味方ではない……(中略)……受け身と同じで、副詞は臆病な作家が好んで使う。まともに読んでもらえないことを恐れる作家が受け身を多用するのは、靴墨で髭を書いた幼年や、母親のハイヒールを履いたよちよち歩きの幼女の舌足らずと変わりない。副詞について言えば、総じてこれは、自分の表現が曖昧で、言いたいことがよく伝わらないのではないか、と恐れる作家の迷いである。」
ここでいうキングの「悪文」とは、余計な形容詞や副詞が使用されている文章を指す。このように彼は、まさに文章における虚勢について述べているのだ。おそらく、小説を書いたことのある人なら絶対に「ギクッ」としていることだろう。
洗練された文章を書くことはもちろん作家(あるいはライター)の仕事である。同じ語尾を使いまわしたり、「という」を頻繁に使ったり、およそ小学生の作文レベルの文章力ではお話にならない。そういうわけで小説を書く人口の8割強は、まず間違いなく「稚拙な文章なんて書かないぞ」と思っている。文章でなにかをつくりだす以上は実際それくらいのプライドがない困るのだ。
しかし、その”プライド”がかえって仇をなすこともある。それがまさにキングの批判する「悪文」に他ならない。
では、「洗練された文章」とは何だ?――小説書きは絶対に一度は自分自身に問い直さなければならない。そして洗練された文章は、コムズカシイ表現をすればいいというものではないし、豊富な語彙力を持ち合わせれば到達できるわけでもない。
数年前のブログ記事でも論じたが、けっきょく「洗練された文章」とは「シンプルさ」のことである。考えてもみてほしい。そもそも文章は、自己と他者を媒介する情報伝達メディアではないか。自分が伝えたいことを相手に伝える――文章はそのためにあるのだ。それ以上でも以下でもない。「小説」とは、あなたが誰かに伝えたい何らかの物語だ。そして「小説の文章」とは、その伝えたい物語を実際に伝えるための手段である。だとするなら「洗練された文章」とは、「物語情報の伝達効率が高いテクスト」と定義できる。
にもかかわらず、小説書きがどうして「悪文」を書いてしまうのか?それはキングが指摘するように「まともに読んでもらえないこと」への恐れに原因を求めることもできるだろう。それはつまり、「自分の生み出した物語そのものに自信がない」のだと換言できる。
では、どうすれば無駄のない洗練された文章(良い文章)を書けるのだろうか。それはもちろん簡単な理屈である。すなわち「自信のある物語を練り上げる」ことだ。
- ――これから自分は読者に何を書こうとしているのか。
- ――何を伝えたいのか、物語のテーマは何なのか。
- ――主人公の動機や行動にツッコミどころはないか。
けっきょくこれに尽きるのである。構成の段階ですでにアヤシイ作品は、その時点で、すでに「悪文」への道が用意されている。だが構成やプロットがハッキリ決まっており、何度読み返しても「これはぜひとも書きたい」と思えるなら、その筆は雄弁に物語を綴ってくれるはずである。無駄な装飾品なんて一切必要なく、シンプルな文節が刻むリズムだけで読者を”感情のジェットコースター”へ導くことができるはずなのだ。
「してみれば、人はもっと自信をもっていい。きっと、自分が何を書きたいかよく心得て、能動態を使った力強い文章が書けることだろう。現に文体も上出来で「彼は言った」と書けば、その話しぶりが早口か、訥弁(とつべん)か、嬉しげか、悲しげか、きちんと伝わっているのではないだろうか。」
わたしはもうめっきり小説を書かなくなった。現在は脚本のほうに創作のフィールドをシフトさせている。しかしそれでも、「文章はあくまでも情報伝達メディアに過ぎない」といういささかストイックすぎるテーゼはいまでも大切にしている。そして手元にはいつも、数品の児童文学を置いている。なぜなら、児童文学作品こそ、わたしの考える「洗練された文章」のお手本だからだ。
年端もいかない少年少女――つまり語彙力が乏しいために「ことば」と「世界」との関連づけが弱い知能レベルの人間――を空想物語の世界へ導く児童文学作品の文章は、考えに考え抜かれ、合理化の極みに達している。簡素な言葉を駆使しながら物語世界を構築するという事業は、3万個を超える語彙力と人生経験豊富なボキャブラリーを持つ大人向けの小説を書くよりもはるかに難しく、ストイックなのである。
だからこそわたしは、文章に迷いが生じたときや物語の構成に詰まったときはかならず児童文学作品に立ち返る。ぜひみなさんも参考にしてほしい。児童文学作品はモノ書きの始点であり同時に終着点である。音読してもよし、書き写してもよし(わたしは書き写す派)。どちらにせよ、かならず有益な学びを得られるはずである。
(おわり)
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