【ネタバレ映画批評】『ダークナイト』その4【ジョーカーの誤算】



今日の名フレーズ

いまでも憶えているが、いとこも私も、興奮に我を忘れて、囲いの外から豚に小石をぶつけはじめた。豚が飛び上がったり、きいきい鳴きながら逃げまわるのが面白くてたまらなかった。と、ふいにがっしりとした手に肩をつかまれた。くるりとふり向くと、すぐ目の前におじの顔があった。「こんどそんなことをしてるのを見つけたら、腰が抜けるほどぶちのめしてやるからな、わかったか?」私たちはふたりとも震え上がった。おじが怒ったのは、どうやら屠殺と関係があるらしいと子供心にわかった。屠殺は儀式であり、儀式らしく行われていたのだ。……中略……だれもがなにをすべきかよく心得ていた。そしてどんなときでも、食糧になる動物たちへの畏敬の念があった。私たちが豚に石をぶつけたことは、その儀式をふみにじる行為だったのである。儀式は粛々と続けられた。

(『戦争における人殺しの心理学』デーヴ・グロスマン/訳:安原 和見)

『ダークナイト』

原題:The Dark Knight

公開:2008年

製作:アメリカ・イギリス

監督:クリストファー・ノーラン

総評:85点

アニメ版やポール・ディニ版のバットマンしか馴染みが無く、”コミカルなキャラクターとしてのジョーカー”しか知らなかった自分は、本作『ダークナイト』における清々しいまでに残虐なジョーカーに面食らったが、一方で物語のテーマ設定は大変興味深く、単純に映画として面白い。DCファンだけでなく、バットマンをあまり知らない人でも楽しめる内容。【ジョーカーとバットマン】の対比、【バットマンとデント】の対比、【一般人と囚人】の対比がかなり上手に構成されており、テーマと共にストーリーテーリングに深みを持たせている。高い評価を受けている理由も納得の出来である。

あらすじ(※バットマンシリーズを知らない人でもわかるように書いてます)

悪党たちが巣くう街、ゴッサムシティ。警察の力も及ばず、治安の悪さは比類なく、人々は夜ごと悪党たちに怯えて眠る日々を過ごしている。そんなゴッサムシティには、悪党を力でねじふせる非合法のヒーローがいた。その名を「バットマン」。市民はマスクの下に隠された素顔を知らないが、ゴッサムシティの「夜」を守るダークヒーローとしてバットマンは尊敬されていた。しかしバットマンは、本当は自分のような非合法なヒーローではなく、法という理性ある世界がゴッサムシティを守るべきなのだという葛藤があった。

そんなある時、ゴッサムシティに”希望の星”が現れる。ハービー・デントは、正義感あふれる気鋭の地方検事。犯罪撲滅に熱心な男で、バットマンに頼らずとも平和な街を実現してみると豪語する。デントがいれば、もしかしたら本当にバットマンが必要のない平和な街が訪れるかもしれない。ほのかに期待するバットマンことブルース・ウェインだったが、事態は思わぬ方向に進展していく。犯罪を心から楽しみ、人間の道徳心や正義感をあざ笑う狂気の男「ジョーカー」が、突如バットマンに宣戦布告したのだ。

「バットマンが正体を明かさないのなら、ゴッサムシティ市民を次々に殺していく」。ジョーカーはゴッサムシティの悪党を駆逐するバットマンを心底憎んでいた。「俺は約束を守る男だ」――宣言通り、ジョーカーの手によってゴッサムシティは混沌の様相を呈していく。バットマンのせいで安全を脅かされた市民は、次第にバットマンへの憎しみを募らせていった。良心の呵責に耐えきれず、ブルース・ウェインは正体を明かして「バットマン」に終止符を打つことを決意する。ハービー・デントさえいれば、きっと大丈夫。自分なしでこの街はやっていける。ブルースはそう思っていたが……。

ジョーカーの誤算

1.”善良な市民”たちの浅ましい姿

前回で論じたように、ゴッサムシティからの脱出を図る”善良な市民”たちは、ジョーカーによって理不尽な状況に追い詰められた。制限時間内に囚人の乗る船を爆破しなければ、自分たちが海の藻屑と消えるというのだ。しかも爆弾の起動スイッチは、同様の条件に置かれた囚人たちの手にも握られている。どちらにせよ、もたもたしていれば命はない。そんな中で”善良な市民”たちは究極の決断を迫られる。自分たちの命と囚人たちの命、どちらを優先するべきか決めなければならないのだ。それはすなわち、「罪を犯していない市民と罪を犯した囚人、どちらの命が重いのか?」という選択を意味した。

はじめはもちろん反対意見も上がったが、やがてタイムリミットが近づくにつれ、市民たちは「最終的には囚人の船を爆破するしかないのだろう」と諦観の念を抱くようになる。その結論へと導いた決定的なロジックは、やはり「罪の所在」である。自分たち一般市民は、罪を犯していない”無垢な存在”。対して囚人たちは、ゴッサムシティで悪さを働き、人々に迷惑をかけた”穢れた存在”――このような思考が、彼ら市民の根底にあったのだろう。どちらが助かるべきなのか? 良識ある人々は、人生のなかで出会った様々な寓話や実話を通じて、あるひとつの「教訓」や「戒め」を知っている。すなわち、「悪いヤツは最後に痛い目をみるべきなのだ」と。

しかし、まだ市民たちには良心の呵責が残っていた。囚人たちは正真正銘”悪いヤツ”だ。だからこそ刑務所にいたのだから。だが、市民たちはどこか釈然としない。それゆえ、悪いヤツは最後に痛い目をみるべきなのだ」という”慣れ親しんだロジック”に抵抗を感じている。だから彼らは、「起爆スイッチを押す」という行為が意味する罪の重さを、誰も背負い込もうとはしなかった。スイッチを押して、囚人の船を爆破しなければならない。そうでなければ、”罪なき”我々は助からない。だが、”罪”をかぶりたくない……なんとも勝手な話である。たしかにここには、ジョーカーの嫌悪する「正義ヅラ人間」の”浅ましい”姿が見え隠れしていると言えるだろう。

2.囚人たちの選択

起爆スイッチを押すか押さざるべきかをめぐって狼狽する市民たち。その一方で囚人たちは、ジョーカーの仕組んだこの”最低な心理学実験”にどんな反応を示していたのだろうか。もちろん囚人たちの船内にも緊張が走っていた。まさに一触即発状態である。「こんなところで死んでたまるか」と躍起になった囚人が船内で暴動が起こしたとしても、われわれ観客自身、その展開に驚くことはおそらくないだろう。警察(刑務官?)が手に持っている起爆スイッチを奪い、ボタンを押してしまうかもしれない。そんな張りつめた状況が続く中、いよいよタイムリミットが目前と迫る。

すると、ある一人の囚人の男が、警察(刑務官?)に近づく。「わかっているだろう。そいつをよこすんだ」――彼はそう言った。警察は自分の命が惜しくなり、何もかも諦めがついたのか、大人しくその囚人に起爆スイッチを渡した。ついにこの囚人は、ボタンを押してしまうのだろうか? そう思った矢先、なんと囚人はそのスイッチを船の窓から放り投げたのだった。

そう、この囚人は、「起爆スイッチを押さない」という選択を下したのである。その結末を目撃した他の囚人たちは、どのような心境だったのだろうか。不思議なことに、その囚人に反抗する者は一人もいなかった。起爆スイッチが投げ捨てられた後、船内は不気味なくらいの静寂に包まれた。囚人の中には、うなだれるものもいた。しかし、その姿には「結局これでよかったのだ」という諦観と安心が入り混じった複雑な感情がみてとれる。当然、できることなら彼らは助かりたかっただろう。しかし、この状況をみるかぎり、彼ら囚人には、相手の船を爆破するという選択をするくらいなら「自死」を決断するという気概は持っていたということだ。むろん、中には隙をみてスイッチを奪い取ってやろうと思っていた囚人がいたかもしれない。誰かが動けば、それに便乗しようという肚だった者もいるはずである。だが、この船内では暴動が一切起きず、起爆スイッチが捨てられた後も何も起こらなかった――それは厳然たる事実である。

起爆スイッチを押すべきか押さざるべきかで揉めていた”善良な市民”たち。彼らは自分たちの命と囚人たちの命のどちらが重いのかという罪深いロジックで葛藤していた。しかし、どうだろう。囚人たちは、「起爆スイッチを押すという選択を放棄する」というやり方で、自分たちなりに”人間らしい”ふるまいを貫いたわけである。なんとも皮肉ではないか。

囚人たちの”決断”の背後には、一体何があったのだろうか。自分たちが犯罪者であるという事実、すなわち、”罪なきゴッサムシティ市民”に対する「うしろめたさ」がそうさせたのだろうか。囚人が起爆スイッチを船から投げ捨て、選択の一切を放棄したこと。それは、自分たちに訪れる死の運命を受け入れたということだ。その行為は、ある種の「贖罪」にも似ている。自らの死によって罪を贖う(あがなう)行為に対して、人類は古来より、儀式的・宗教的な次元から「崇高さ」を見出してきた。では、起爆スイッチを放り投げた囚人のふるまいは、はたして本当に尊いものだったのだろうか? その行為の意味をめぐる解釈については、われわれ自身の胸中に訊ねる他はない。

しかし間違いないのは、彼ら囚人たちの姿が、観客に”何か”を訴えかけているということだ。囚人はみな、名もなきキャラクターに過ぎないが、彼らは観客に「問い」を投げかける。そして観客は、「頭と心」を使う。すると、この作品を観終わった後も、この囚人たちは時折われわれの心に蘇ることになる。起爆スイッチと囚人をめぐるシーンは、それだけに意義深いものと言えるだろう。すべからく「作品」というのは、こうでなくてはならないのだ。わたしは常々そう思っている。一過性のもので終わるのではなく、観客の心に「爪痕」を残すようなものであるべきなのだ。

3.”善良な市民”たちの選択

では、けっきょく市民たちは最終的にどのような決断に迫られたのだろう。タイムリミットが迫る中で、囚人たちは起爆スイッチそのものを放棄した。一方の”善良な市民”たちは、起爆スイッチを押して助かるという選択を”決断”したものの、まだ実行に移していない。誰も彼もがみな、その罪深き行為を背負うことに「うしろめたさ」を感じているからだ。やがて、ある痩せ身の中年男が歩み出る。起爆スイッチを押すという重荷を自分が背負うと決意したのだろう。なぜか? 助かるにはそうするしかないからだ。確かにその通りである。事実、この男はさいぜん「助かるには囚人の船を爆破するしかない」と主張していた市民の一人だった。有言実行。彼は賢明であり、勇敢な人であった。

男の左手の薬指には、結婚指輪がはめられていた。彼には妻がいる。おそらく、子供もいるだろう。まだゴッサムシティにいるのか、それとも他の街に住んでいるのかはわからないが、少なくとも彼には、「生きる理由」があった。愛する者のため、なんとしてでも家に帰らねばならないのだ。だから彼は、起爆スイッチを押すという選択を決断した。このとき、彼はもはや、「助かるためには仕方なかった」と言い訳する気にすらなっていなかったかもしれない。助かりたいというただ一心で、心を鬼にして、不条理な選択をみずから選んだのだろう。

わたしは、彼の選択が誤っていたとは露ほどにも思わない。そもそもこれは、「正しい」とか「誤っている」とか、そういう次元で語れる話ではないのだ。暖かい部屋でポップコーンを歯みながら映画を観ている人間には、この男の選択に”ジャッジ”を下すことはできない。その資格もないだろう。誰だって助かりたいと思うし、現実にこうした状況に置かれた場合、自分自身が実際にどのような決断を下すのかまるっきり見通しがつかないからだ。つくわけがない。まさに、”神のみぞ知る”というわけである。だからこの中年男の行為は、ひとつの「考えられる結末」に過ぎない。そこに正解・不正解もないのである。前回の記事でも論じたが、この手の”究極の決断を迫るシチュエーション”には、答えがない。あるのはただ、「選択と結末」だけなのだ。

――しかし、である。歩み出た中年男は、覚悟を決めて起爆スイッチに手をかけたが、ついぞ起爆をさせることはなかった。逡巡したあと、彼は起爆スイッチからついに手を離してしまった。この男は、起爆スイッチに手を触れたとき、何を思ったのだろうか? どんな考えが頭をめぐったのだろうか? それはわからない。男はまるで汚らわしいものに触れたかのように起爆スイッチから手を離し、何かを悟ったかのような神妙な面持ちで元いた場所に戻った。作中で描かれたのは、それだけだ。セリフは一切ない。しかし、彼の一連のふるまいには、言葉以上に観客の心に響くものがある。それが演出の妙であり、映画の素晴らしさである。セリフなど、はなから必要ないのだ。

男が起爆スイッチから手を離し、「囚人を犠牲にして生き残る」という選択を放棄したとき、”善良な市民”たちの反応は様々だった。失望と悲嘆に打ちひしがれる者。死が訪れる瞬間に怯える者。すべて諦めたかのように押し黙る者。しかし、彼の行動を讃える者は一人もいなかった。拍手などない。当然である。そんな”お涙頂戴”な展開など、望めるはずもない。男はたしかに、”崇高な選択”をしたのかもしれない。テレビドキュメンタリーで毎年高視聴率を取れるくらいの”ヒューマニズム”あふれる決断だったように思う。しかし、船内にいる者はみな、男の行動を称賛する心の余裕などなかった。なぜなら、順当にいけば、このまま自分たちは爆散する運命にあるからだ。そんな状況の中、どうして男を讃えることができよう。自分たちが「死」に直面する当事者であるというあまりにも冷酷な現実の前では、どんな美談も一切が空虚である。だから、この「爆破スイッチ放棄」のシーンで描かれる市民たちの反応は、当然描かれるべきものである。それをまったく無視して、ヒューマンドラマよろしくの低俗で陳腐な展開を描かなかったのは、とても良かったと思う。もしそれを描くようなら、万死に値するだろう。

4.ジョーカーの誤算

追い詰められた極限の状況が、「人間の本性」を露にすると考えるジョーカー。彼の予期する「人間の本性」とは、自己中心的で醜悪な浅ましい姿のことである。しかし、ジョーカーの予想は見事に裏切られた。市民と囚人。船に閉じ込められた彼らは、そんな状況だからこそ、胸中に宿る「正義」――のような信念――にもとづいた行動をとったのだ。その結果、二艘の船は爆破されず、けっきょく市民と囚人は共に生き残った。

なぜだろう? なぜ、船は爆破されなかったのだろうか。もともとジョーカーは、市民と囚人に「爆破スイッチが押されなかったら、最終的にはどちらも爆破される」とアナウンスしていたはずである。だったら、残酷だが約束通り爆破するべきだ。しかし、そうはならなかった。これについては、「演出上そうしたほうが丸く収まるからだ」メタ視点で説明はできる。”崇高な選択”をしたはずの両者が爆散してしまっては、元も子もないではないか。せっかく示唆された「教訓」も船と一緒に粉々である。これを、あえてジョーカーというキャラクターに内在して説明するなら、おそらく次のようになる。すなわち、「ジョーカーはどちらかがどちらかを爆破すると決め込んでいた。だから、『両者とも爆散スイッチを押さない』という結末を想定しておらず、二艘の船が共々爆破されるようには仕込んでいなかった」と。はい、おわり。これ以上説明するのは野暮というものだ。大切なのは、ジョーカーが「絶対にどちらかが相手を爆破する」という確信があったということ。その”決めつけ”にもとづいて爆弾を仕込むからこそ、ジョーカーたるゆえんなのだ。

ともあれ、ジョーカーは自分が「誤算」をしていたことを認めなくてはならなかった。本当なら、いままさに胸倉をつかみ合っているバットマンに「”正義の心”の薄っぺらさ」を見せつけて、絶望に落とし込んでやるつもりだったのに。”こんなはずではなかった”――ジョーカーはただ驚くばかりだ。そして、ちっとも面白くない展開である。とはいえ、こんなことではジョーカーの「信念(哲学)」は揺るがない。そうでなければジョーカーではない。彼はおそらく、今回の”不可解な結末”を、犬のクソを踏んでしまった程度にしか思っていない。つまり、”不幸な偶然”という認識をもって自分の中で解決するのだろう。市民と囚人をめぐる一件は、あくまで例外中の例外なのだ、と。事実、ジョーカーはこの結末を「例外」として片付けるくらいには、多くの人々の浅ましい姿(人間の本性)を見てきているはずである。なにしろ彼は、自分の哲学をひたぶるに探究する芸術家であり学者だからだ。ちょっとやそっとのことで、自分の見識が揺らぐことはない。

そしていま、この不可解で不愉快な結末の記憶を払拭するくらいの出来事が静かに進行していた。あの「ホワイト・ナイト」と呼ばれた、ハービー・デントである。彼は、バットマンと同じく災難にもジョーカーに”目をつけられた”人物の一人だ。ジョーカーは、デントの心の隙間にスルリと入り込み、胸に秘めている”高潔な精神”を徹底的に凌辱したのだ。残念ながら、「表の世界」のヒーローことハービー・デントはダークサイドに墜ちた。デントはいまや、ジョーカーの”作品”のひとつになってしまった。

なぜデントは心が蝕まれてしまったのか? 次回は、それについて触れていかねばなるまい。

5.「結末」は単なる偶然?

今回をもって、「善良な市民と囚人の対比構造」に関する批評がひと段落した。やはり、よく出来ていると思う。極限の状況に追い詰められた人々の心情が克明に描かれている。陳腐なお涙頂戴が一切排除され、深刻な問いに直面したキャラクターの葛藤は、たしかに観客の心に届くものだった。それはノーラン監督が、この展開を単なる他人事のシチュエーションではなく、「自分たちだったらどうするだろう?」という自分自身への問いとして真剣に向き合う姿勢があったからこそ成せる演出だったに違いない。

「ジョーカーの最低最悪な心理学実験」編を通じて、われわれ観客は何を得たのだろうか? 彼らの命をかけた究極の決断は、言うまでもなく、”人間らしさ”とか”ヒューマニズム”を色濃く反映していることは間違いない。ジョン・ロールズもマイケル・サンデルも涙ちょちょ切れるほどの”美談”というわけである。やや皮肉めいた言い方をしているが、ここから得られる”教訓”が意義のあるものであることは間違いない。

だが、この一連の顛末を、”スクリーンに映し出されるつくり話”、すなわち”正しい行いをした者は報われるのがお約束”という話で終わらせてしまうわけにはいかない。ひねくれた発想だが、市民と囚人が助かったのは、単なる偶然であり、「考えられる結末のひとつ」であるという事実は心の片隅に留めておくべきだとわたしは思う。そうでなければ、この爆破スイッチをめぐるエピソードは、真の意味でわれわれにとっての「教訓」にはなりえないだろう。

突き放して言えば、今回はたまたま囚人が良識と良心を備えた”善き人”だっただけなのだ。だとするなら、市民が起爆スイッチを押すという選択もまた、ひとつの立派な「考えられる結末のひとつ」なのである。もし実際にそのような極限の場に居合わせたとして、あるいはそのような出来事がどこかで起こったとして、果たしてその決断を責める権利は、誰にあるというのだろうか。命がかかっているのだ。生き残る理由は誰にだってある。生き残りたいという欲求を天秤にかけて重さを測ることはできない。比べられないからこそ、われわれは「正解のない決断」を迫られる。そしてあるのはただ、「選択と結末」のみ。ゴッサムシティの市民と囚人は、幸運にも、ジョーカーの誤算から死の運命を免れることができた。それはスクリーンの中の出来事として完結している。しかし、このエピソードが提示する「極限の状況と究極の選択」は、スクリーンの外にいるわれわれにとって、非常に深刻である。なぜなら、現実は非情だからだ。実際は、囚人が即座に警官のスイッチを奪って相手を爆破するかもしれない。そんなとき、あなたならどうするだろうか? 「ジョーカーの最低最悪な心理学実験」は、観客の喉元に鋭いナイフを突き立てているのである。

 

(その5に続く……)



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石山 広尚(いしやま ひろなお) 1991年うまれ。 札幌在住のライター。 一時期は社会学の研究者を志していたが、ひょんなことから友人と同人誌をつくることになり、それがきっかけで「創作」の世界にどっぷりハマる。小説サークルを主宰し、「批評」の重要性を痛感する。 ・大学院時代の専門:思想史と社会学 ・好きな作家:H.G.ウェルズ、オー・ヘンリー、ポール・ギャリコ、スティーブン・キング ・好きな映画:ゴッドファーザー、第三の男、ターミネーター2