物語はスポーツと同じ!?「設定」と「目的」の関係について



今日の名フレーズ

優れた脚本家の仕事は、読み手にページを捲らせ続けることである。したがって、脚本の冒頭10ページは、最も重要なのだ。

(『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』シド・フィールド/訳:安藤紘平 他)

物語はスポーツと同じ?「設定」と「目的」の違いについて

1.「設定」と「目的」

物語には、「目的」がある。この「目的」とは、物語が到達するべき「ゴール」のことだ。ゴールのわからないマラソンが苦痛であるように、「この物語は何をどうすればエンディングを迎えることができるのか?」が観客にハッキリ伝わらないと、その時点で不快感を感じさせてしまう。そして物語の目的(ゴール)は、わかりやすいほど良い。悪いヤツを倒す、惚れた女の子をゲットする、金持ちになる、復讐する、(苦境から)脱出する、サバイバルする(生き残る)……1000年前の人間ですら共感してしまうような普遍的な欲求に根差した目的は、シンプルかつストレートに観客の心に届く。「わかりやすい」とはつまりそういうことなのだ。

ゴールがあらかじめわかっているからこそ、観客は楽しむことができる。それでこそ主人公の行方を見守る甲斐があるというものだ。スポーツだってそうではないか。勝敗条件(試合のゴール)を理解しているから、観客はゲーム展開にハラハラドキドキできるわけだ。そのことは、物語にも同様に当てはまる。

しかし一方で、観客は、物語の目的(ゴール)の提示だけではまだ納得しない。ここでもっとも大切なのは、主人公がなぜその目的(ゴール)を果たさなければならないのかということだ。つまり「動機」である。動機は、主人公に行動を起こさせる起爆剤だ。これは不発だと、物語を上手に動かすことができなくなる。

だから作者は、主人公がアクションを起こさずにはいられなくなるシチュエーションを用意しなくてはならない。そこで必要となってくるのが、「設定」というわけである。

  • 「鬼が悪さをはたらいて人々を苦しめている」

桃太郎。「鬼」というキャラクターがいて、彼らの本拠地「鬼が島」がある(設定)。人々を救うため(動機)、桃太郎は悪の根源を絶つべく鬼が島へ向かう(目的=ゴール)

  • 「未来を変えるために、過去へ送り込まれた刺客が主人公に襲い掛かる」

『ターミネーター』および『ターミネーター2』。未来の世界では、ロボットと人間が戦争をしており、壮絶な戦いの末、ジョン・コナーという英雄によって人類の勝利が目前に迫っていた(設定)。そこでロボット勢力は、未来を変えるために過去のジョン・コナーを殺すべく過去の世界に刺客を送り込んだ(設定)。母親のサラ・コナーと息子のジョン・コナーは、生き延びるべく(動機)、逃走と闘争を命からがら繰り広げる(目的=ゴール)

  • 「不可解な死を遂げた友人の真実を探る」

『第三の男』(1949年:映画)。友人に会うべくオーストリア・ウィーンへやってきた主人公は、その前日に友人が事故で死んでしまったことを知る(設定)。そこで偶然出会ったイギリス軍の大佐が、実はその友人が悪名高い密売人だったと”真実”を告げる(設定)。にわかに信じられず、友人の死には何かが隠されていると確信(動機)した主人公は、ほんとうの”真実”を探る(目的=ゴール)べく単身ウィーンで調査を開始する。

「設定」の本質とはすなわち、主人公が動機を抱き、目的を果たすための「シチュエーション」である。逆に言えば、それ以外の部分にかかる設定はすべて”オプションパーツ”にすぎない。オプションパーツはあってもいいが、無くても別に困ることはない。どれだけ設定を広げるかは個々人のこだわりや好みに委ねられるが、共通しているのは、設定をゴテゴテに盛り込んだり広げたりすると、物語の本筋がわかりにくくなり、焦点がボヤけてしまうということだ。

ところで先程も例にあげたスポーツは、「設定=シチュエーション」という捉え方を理解する上で非常に優れたお手本である。スポーツには、言うまでもなく勝利条件(試合の目的)というものがある。試合に臨む選手たちは、当然、勝利を手にするために奮闘する。このとき「ルール」は、プレイヤーたちが勝利を奪い合うための闘争をより面白くするための様々なシチュエーションを用意している。ゴールポストにボールを入れることが勝利条件のサッカー(フットボール)では、「足しか使ってはいけない」というシチュエーションを選手に強制する。バスケットボールは「手」。そして野球は、「ホームベースに体を触れる」というシンプルな目的への道のりを、様々な制限を設けることであえて困難にしている。バッターにとってホームベースは、他のスポーツに比べてもっとも身近にあるゴールだ。しかし、これに触れるまでの道のりが非常に遠い。近くて遠いゴール。それが野球の面白さなのだ。実は物語も、「近くて遠いゴール」というシチュエーションが最高のスパイスだったりする。これについては、機会があればまたいずれ論じよう。

2.設定を説明するために時間を費やすのはNG

観客にも色々と好みはある。何を面白いと思うのかは、人それぞれ”ツボ”が異なる。その事実を認めた上でなお、万人に共通するタブーが存在する。それは、物語内で「設定」を説明することに時間を費やすということ。なぜだろうか? 話は単純で、観客は「設定」を観たいのではなく、主人公の「動機」と物語の「目的」に関心があるからだ。にもかかわらず、この世の中には、「設定」を説明するためだけに長い時間を費やす作品が星の数ほどある。みなさんにも、経験があるのではないだろうか。「なかなか話が前に進まないな……」「いつまでこのくだりをやるんだ?」「早く話を進めてくれ!」と不満に思ったとき、その作品は間違いなく、「設定のお披露」病に冒されているはずである。

去年の記事でも同様のことを論じたが、本来「設定」そのものに物語を動かす力はない。このことは、何度強調してもしすぎることはない。「設定」はあくまでも、物語を動かすための始点に過ぎないのだ。そして実際に物語を動かすことができるのは、「主人公の行動」ただひとつである。

3.設定が複雑になるほどマイナスになると心得よ

結論はいたってシンプルだ。物語をつくる際には、設定を先行させるのではなく、その物語がどんな目的(ゴール)に向かって走って行くのかを第一に考える。これがベストな方法論である。しばしば創作理論で「物語の結末を先に決め、そこから逆算しながら展開を考えろ」と言われるのはそのためである。もちろん創作には、予期せぬ”素敵な出会い”もある。ある強烈な場面イメージが突如降りてきて、それを描きたいがために物語を創作するなんてこともよくあることだ。しかしその場合も、最終的には「結末=物語の目的」という動かしがたい部分を確定し、そこから演繹しながら各展開を構築する必要がある。

設定がごちゃごちゃと物語に盛りつけられており、観客の集中力を散漫にさせている――世に言う”駄作”の特徴である。観客の集中が散漫になるのは、設定という名の「情報の洪水」が次から次に押し寄せるからだ。観客はもちろん、それをなんとか頭の中で処理しようと試みる。専門用語、登場人物の名前、人間関係、主人公の置かれている状況……そしてこれらの情報が、物語の本筋といったいどんな関係を持つのかについて思考をめぐらせる(なかば無意識に)。

しかし、一向にスジが見えてこない。相変わらず「設定」は更新されていくが、物語の目的(ゴール)が判然としない。「いったい、何をどうすればこの物語は終わりを迎えるんだ?」という疑問が頭をもたげる。これでは興ざめもいいところではないか。みなさんも、ルールのよくわからないスポーツについて尋ねるとき、たいていはこう切り出すことだろう。「で、このスポーツはプレイヤーが何をすれば勝ちなんだ?」と。物語だってそれは同じことである。初見の観客は、ルールのよくわからないスポーツを前にした素人も同然。だからこそ作者は、「で、この物語は主人公が何をすれば終わりなんだ?」という人々の疑問を即座に解消しなければならない。それは作者の義務である。

設定ばかり凝らしていくと、もっとも大切な物語の「目的(ゴール)」が埋もれて見えなくなってしまう。それでは本末転倒である。スポーツも物語も、設定が主役ではない。設定の先にある「結末(ゴール)」に面白さがあるのだ。何事もシンプルがいちばん。物語をつくるときは、まずは結末をしっかり定めておくのが失敗しない秘訣である。

 

(おわり)



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石山 広尚(いしやま ひろなお) 1991年うまれ。 札幌在住のライター。 一時期は社会学の研究者を志していたが、ひょんなことから友人と同人誌をつくることになり、それがきっかけで「創作」の世界にどっぷりハマる。小説サークルを主宰し、「批評」の重要性を痛感する。 ・大学院時代の専門:思想史と社会学 ・好きな作家:H.G.ウェルズ、オー・ヘンリー、ポール・ギャリコ、スティーブン・キング ・好きな映画:ゴッドファーザー、第三の男、ターミネーター2