今日の名フレーズ
あなたならどうする? もし救命イカダに乗って、海を漂流するはめになったら? 足を骨折して、山で身動きが取れなくなったら? それとも、まさにことわざ通り、船をこぐオールもなく川に取り残されたら? あなたはどれくらいの間泳いでから、あきらめて溺れるだろう? どれだけの間、希望を捨てずにいられるだろう? わたしたちが夕食やパーティの席で、またはくつろいだ日用の午後に、こんな問いを投げかけるのは、なにも生き残るための秘訣を知りたいからではない。備えるすべもなく、これまで経験したこともない極限状況に立ち向かう、人間の限界や能力に興味をかき立てられるからなのだ。こうした極限状態を生き延び、物語を伝えることができるのはだれなのだろう?
(『選択の科学』/シーナ・アイエンガー/訳:櫻井 祐子)
『ダークナイト』

原題:The Dark Knight
公開:2008年
製作:アメリカ・イギリス
監督:クリストファー・ノーラン
総評:85点
アニメ版やポール・ディニ版のバットマンしか馴染みが無く、”コミカルなキャラクターとしてのジョーカー”しか知らなかった自分は、本作『ダークナイト』における清々しいまでに残虐なジョーカーに面食らったが、一方で物語のテーマ設定は大変興味深く、単純に映画として面白い。DCファンだけでなく、バットマンをあまり知らない人でも楽しめる内容。【ジョーカーとバットマン】の対比、【バットマンとデント】の対比、【一般人と囚人】の対比がかなり上手に構成されており、テーマと共にストーリーテーリングに深みを持たせている。高い評価を受けている理由も納得の出来である。
あらすじ(※バットマンシリーズを知らない人でもわかるように書いてます)
悪党たちが巣くう街、ゴッサムシティ。警察の力も及ばず、治安の悪さは比類なく、人々は夜ごと悪党たちに怯えて眠る日々を過ごしている。そんなゴッサムシティには、悪党を力でねじふせる非合法のヒーローがいた。その名を「バットマン」。市民はマスクの下に隠された素顔を知らないが、ゴッサムシティの「夜」を守るダークヒーローとしてバットマンは尊敬されていた。しかしバットマンは、本当は自分のような非合法なヒーローではなく、法という理性ある世界がゴッサムシティを守るべきなのだという葛藤があった。
そんなある時、ゴッサムシティに”希望の星”が現れる。ハービー・デントは、正義感あふれる気鋭の地方検事。犯罪撲滅に熱心な男で、バットマンに頼らずとも平和な街を実現してみると豪語する。デントがいれば、もしかしたら本当にバットマンが必要のない平和な街が訪れるかもしれない。ほのかに期待するバットマンことブルース・ウェインだったが、事態は思わぬ方向に進展していく。犯罪を心から楽しみ、人間の道徳心や正義感をあざ笑う狂気の男「ジョーカー」が、突如バットマンに宣戦布告したのだ。
「バットマンが正体を明かさないのなら、ゴッサムシティ市民を次々に殺していく」。ジョーカーはゴッサムシティの悪党を駆逐するバットマンを心底憎んでいた。「俺は約束を守る男だ」――宣言通り、ジョーカーの手によってゴッサムシティは混沌の様相を呈していく。バットマンのせいで安全を脅かされた市民は、次第にバットマンへの憎しみを募らせていった。良心の呵責に耐えきれず、ブルース・ウェインは正体を明かして「バットマン」に終止符を打つことを決意する。ハービー・デントさえいれば、きっと大丈夫。自分なしでこの街はやっていける。ブルースはそう思っていたが……。
ジョーカーの最低最悪な「心理学実験」
1.ジョーカーの最低最悪な「心理学実験」
物語の終盤は、ゴッサムシティ市民に深い絶望と失望を与えていた。表の世界のヒーローたるハービー・デントはジョーカーの魔の手によって再起不能レベルの大ケガを負わされ、いくつもの建物が爆破、次々に警官たちが犠牲になっていた。これらのいくつもの悲惨な出来事は、理性ある世界(法が統べる秩序)の崩壊を象徴している。もはや頼みの綱であるバットマンの抑止もジョーカーには効かないとみるやいなや、ついに市民たちは堪りかね、ゴッサムシティからの逃亡を試みるのだった。この大がかりな逃亡劇は、ジョーカーが待ち望んでいた混沌(カオス)の世界の夜明けを意味していた。
「正義」が平和な世界にのみ通用する空虚な思想であると確信するジョーカー。彼は、ゴッサムシティの”表の世界”を善良市民ヅラしながら闊歩する人々のことを心底見下している。そんな市民の化けの皮をはがしてやろうと、ジョーカーは最後の最後に、とある”サプライズ”を試みた。それが、「爆弾を載せた二艘の船」である。
いま、脱出を試みる市民には二艘の船が用意されていた。
- ひとつは、犯罪を犯していない「善良な市民」だけが乗り込める船。
- またもうひとつは、犯罪を犯して収監中の「囚人」と刑務官(警察?)だけが乗る船。


これだけをみると、一般市民と囚人が一緒に乗船するわけにもいかないので、この配慮自体はまあ当然のことだろう。しかしそれは、残念ながらジョーカーの罠だった。この二艘の船には、それぞれに爆弾が仕掛けられていたのだ。制限時間内に、どちらかが手元の起動スイッチを押して相手の船を爆破しなければ、最終的にどちらも爆破されてしまうという。
どうやって爆弾を仕込んだんだよ、という至極ごもっともなツッコミはさておき、ともかくジョーカーはこのような”サプライズ”を盛大に仕込んだ。その目的は一体何なのか? それは、あえて「命」を天秤にかける極限の状況をつくりだして「善良な市民」に究極の選択を迫り、”化けの皮”を剥ぎ取るためである。善良な市民は、きっと「囚人」を信用しない。ジョーカーはそう考える。なぜならは囚人は、善良な市民からすれば、「正義」とは真逆の「悪党」だからだ。そんな囚人の船にはいま、自分たち善良な市民を一瞬で木っ端みじんにできる爆破スイッチがある……。
――囚人は当然、助かりたいと思うはずだし、もともと犯罪を犯すような連中なのだから、なんのためらいもなくスイッチを押して相手の船を爆破するに違いない。そんな理不尽な状況下で助かる「べき」なのはどちらなのだろうか? 罪なき善良な人々こそが生き残る「べき」なのではないか?
誰しもが頭をよぎる想像だ。実際、劇中の善良な市民たちも、この実験を仕組んだジョーカーも、そしてこれを観させられているほとんどの観客も、そう考えているのだ。
ジョーカーにとって、この「爆弾を乗せた二艘の船」実験の結末はすでに明白のことだった。どうせ時を待たずして片方の船が爆破されると予想はついているのだ。そしておそらく爆破されるのは、囚人の船。この結末をもって、ジョーカーは「正義」が実に薄っぺらい戯言でしかないことを人々――そしてバットマン――に証明するつもりでいたのだ。
もともとジョーカーは、「正義」にもとづくあらゆる思想が、安全で平和な世界がうみだした虚しい幻想でしかないと考えている。それに気づかない市民たちは、いけしゃあしゃあと善人ヅラをして生きている。だからジョーカーは、善良な市民を安全でもなく平和でもない状況に追い込んだわけである。爆弾が積まれた船の中は、平和な日常で通用する一切の論理が空虚である。そこで狼狽する善良な市民たちの姿は、まるで巣から放り出されたヒナドリのようだ。しかし追い詰められたヒナドリには助かる方法がひとつだけ残されている。それが、相手の命を奪う爆破スイッチなのだ。このいよいよ逃げ場のない袋小路によって、人々の「本性」が露になる。ジョーカーはそう予想しているのだ。
「爆弾を乗せた二艘の船」は、つまるところ、「自分たちが助かるために相手の命を犠牲にできるか?」という問いがテーマになっている。そしてジョーカーは、「自分たちが助かるために相手の命を犠牲にできる」と予想している。この物語終盤の展開が観客を惹きつけるのは、劇中の「善良な市民」たちが、まさしくわれわれ「観客自身」と重なるからである。爆弾搭載の船に乗り込んでしまった哀れな人々は、けっして他人事ではない。だからこそ緊張感がある。ジョーカーの”究極の問い”はスクリーンの前でポップコーンをむさぼっている観客にも突きつけられているのである。
2. 善良な市民の葛藤
制限時間内に相手の船を爆破しなければ、自分たちも木っ端みじんになるという事実を告げられて混乱する”善良な市民”たち。なぜ自分たちがこんな目に遭わなくてはならないのか? 船内は騒然とするなか、三々五々、人々から意見が飛び交う。それでもなお、なんとか「理性」を保とうとする者はいた。いくら相手が囚人とはいえ、自分たちが助かりたいがために爆破スイッチを押すべきではないと言うのだ。しかし一方で、さっさと囚人の船を爆破しなければこちらがやられてしまうと焦る者もいる。なにしろ状況が状況だ。自分たちの生殺与奪が囚人の手に握られているというこの極限の状況下で、果たしてスイッチを押すべきではないという”まっとうな”主張はいったいどこまで説得力があるのだろうか?
生か死か。”善良な市民”を乗せた船はいま、そのどちらかに傾きかけている。「自分たちの命と囚人の命は、どちらが重いのだろうか?」――船の命運は、その問いにかかっているのだ。そしてこの問いは、平穏な日常の世界で生きてきた市民にとって、あまりに”馴染みのない”ものだった。なぜなら本来は、こんなことを問う必要などなかったからだ。まっとうに生きていれば、「自分たちの命と囚人の命は、どちらが重いのだろうか?」なんて究極の問いは生じえない。せいぜい、倫理学や哲学の講義で”正解のない問い”の例題として教授の口から知るくらいで、まさか自分がその当事者になるなんてことは夢にも思わないだろう。

実際、犯罪を犯した人間のことなどは、すべて「法」に委ねれば平和な日常が機能していたのだ。理性の名のもとに、秩序ある「法」によって裁きを下しさえすれば自分たちの「正義」は保たれていたし、”善良な市民”を演じ続けることができた。この世の中を、「犯罪を犯した人間(囚人)」と「そうでない人間(善良な市民)」という二分法で解釈できたのだ。命の重さはここでは問われない。問われるのは、罪を犯した人間か否か、だけである。しかし、いまこうして、お互いに爆破スイッチに手を触れられる状況ではどうだろうか。もはやこのとき、”善良な市民”を守るのは「法」でも「理性」でも「社会正義」でもなく、「自分たちの命と囚人の命は、どちらが重いのだろうか?」という究極の決断のみである。つまり”善良な市民”たちは、自ら進んで殺人を決断しなければならない。そう、殺人である。これは、相手の殺意から自分たちを守るために行う「正当防衛」ではない。なぜなら囚人たちもジョーカーの罠に堕ちた正真正銘の「被害者」であり、しかも彼らが市民を爆破する保証なんてどこにもないからだ。もしも囚人たちが相手の船を爆破するつもりがなかったのににもかかわらず、市民側が早合点してスイッチを押せば、そのとき”善良な市民”は一転して「罪を犯した人間」になってしまうだろう。
もちろん、こうした極限の状況下において、市民のとりうる決断に唯一の正解なんてものはない。しばしば勘違いされるのだが、いわゆる「トロッコ問題」などに代表されるこの種の「究極の問い」には、はじめから正解がない。あるのは「結果」だけである。そして、正解がないからこそ厄介なのだ。なぜなら、自分自身の「意思決定」がすなわち「結果」と直結するからである。だから仮に”善良な市民”が、決断を迫られて追い詰められた結果、爆破スイッチを押して囚人たちを皆殺しにしても、「これは仕方なかった」という論理で慰めることはできるし、誰も責められないだろう。この船内にいた人々もまた、自分にそう言い聞かせて慰めるかもしれない。
「そう、悪いのはジョーカーだ。あいつのせいでこんなことになってしまった。だから仕方ない。囚人たちも気の毒だったが、自分たちも被害者だ。”状況”がそうさせたんだ。囚人を殺したのはもちろん本意ではなかった。だけど、これは仕方ないことだったんだ……」
そしてすべての元凶であるジョーカーは、誰よりもこの結末を望んでいた。ジョーカーは”善良な市民”たちの心に、「囚人の命を天秤にかけた」という事実を深く刻みつけることが目的だからだ。つまり、市民たちの意思決定の背後にある「囚人の命は自分たちよりも軽い」という罪深きロジックをあぶりだすことで、人々の「正義」を凌辱してみせようというのだ。
平和な日常の世界から切り離された、爆弾を積まれた二艘の船。そこでは「理性」や「良識」という幻想が壊され、市民の”人間本性”を露にさせる。この船内は、「万人による万人に対する闘争状態」のミニチュアなのだ。まさにジョーカーの望んでいた「混沌(カオス)」そのものである。こうして『ダークナイト』の終盤では、ジョーカーが仕込んだ最低最悪な心理学実験によって「正義」というテーマの総括を迎える。
3.キャラクターの決断する選択が物語を面白くする
本当は「囚人」の話に向かいたかったが、だいぶ長くなってしまったので、それについてはまた次回に改めようと思う。
さて今回の「爆弾を載せた二艘の船」で演出されているジレンマ――「囚人の命と善良な市民の命はどちらが重いか」――は、倫理学や哲学では昔からモストポピュラーな話である。シチュエーションや主体が換骨堕胎されながら、「〇〇と△△はどちらが優先されるべきか」という選びようのない二者択一問題が連綿と受け継がれている。はっきり言うと、この種の問い自体は、すっかり手垢のついた古臭い議論とも言える。みなさんも、似たような話をそこかしこで見聞きしていることだろう。
しかし、何度も繰り返し語られ尽くされているからといって、その議論が突きつける深刻な問いは、時代を超えて色あせないものがある。なぜなら選択のジレンマ問題は、生きている限り、もしかしたらいつかわたしたち自身が直面するかもしれないからだ。単純な思考実験として選択のジレンマをシュミレーションすることは容易だし、酒のツマミ程度のノリで語ることもできる。そしてけっきょく、「まあ、答えなんて人それぞれだ」と結論する他ない。そうやって「選択のジレンマ」考えると、毒にも薬にもならないほど陳腐としか言いようがないのだが、ところがどっこい、ひとたび状況を具体化し、キャラクターを配置して、必ずどちらかの「選択」を迫るような展開を用意してあげると、わたしたちは関心を持たずにはいられなくなる。それがまさに物語の魅力である。
そう、物語は必ず「前に進む」ように出来ている。前に進むということはつまり、絶対に何らかの「結末」を迎えるようになっているわけだ。それゆえ『ダークナイト』の”善良な市民”が最終的にどんな選択を下すのか、観客は興味をそそられてしまう。
ようするに「〇〇と△△はどちらが優先されるべきか」という「問い」自体は、実はそこまで重要ではないのだ。客観的に妥当な解を求めるのもナンセンス。だが、「正解なんてない」という結論に終始するのも陳腐である。たしかに「正解」はないかもしれないが、「選択と結末」は確かに存在するのだから。そして観客が真に求めているのは、「問い」ではなく「選択と結末」なのである。だから物語は面白い。キャラクターは展開のなかで、必ず何かを決断しなくてはならない状況に追い込まれる。そして観客は、ハラハラしながら彼らの行く末を見守る。時には自分の姿に重ね合わせ、また時には自分自身に問いかけながら。
「自分だったらどうするだろうか?」――ジョーカーの仕込んだ最低最悪な心理学実験は、人間存在にまたがる普遍的で哲学的な問題を観客の喉元に突きつけている。けっして他人事ではいられない。そんな観客の意識が、作品に対する緊張感・没入感・共感を生み出す。だから『ダークナイト』は面白い作品なのである。繰り返すが、「〇〇と△△はどちらが優先されるべきか」という選択のジレンマ自体は、別段、目新しい問いではない。大学生なら誰でも知っているような、至極ありきたりな話である。だが、そんな陳腐な問いが、実際に物語の展開に落とし込まれると、あっという間に物語を魅力的にする最高のスパイスに変わるのだ。
コメントを残す