今日の名フレーズ
天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、庫の筋骨を労せしめ、其の体膚を餓えしめ、其の身を空乏にし、行なうこと其の為さんとする所に払乱しせむ。
(天がその人に大きな使命を与えるときは、まずは心と肉体を苦しめて逆境へと導き、乗り越えるべき試練を与える)
(『孟子』)
これまでの自分を超えて成長するには、これまでにないほど打ちのめされることが時として不可欠である。
Sometimes you have to get knocked down lower than you have ever been, to stand up taller than you ever were.
(とあるyoutubeの動画にあった言葉/訳わたし)
「なろう系」にモノ申す!このジャンルに圧倒的に足りない要素とは?
1.根性論はもう古い?
誰とは言わないが、とあるツイートがちょっとした話題になっている。内容を端的にまとめるとこうなる、すなわち「根性で乗り切る努力展開なんて現代の若者には受けない」と。根性燃やして努力するよりも、「授けられた自分の才能」を活かして、より高い実力をつけることが”現代風の努力”なのだと主張している。
これに関しては、実はわたしもそこまで否定的ではない。「授けられた才能」を自覚し、それを存分に引き出すために「研究」して「試行錯誤」し、よりはるかな高みを目指していく――これは立派な努力の一形態だ。「雨の日も風の日も素振りをし続ける系」の努力が「すべて」ではないことは確かである。以前、本ブログの記事でも書いたことだが、努力とは「試行錯誤して色々と試すこと」とわたしは定義している。実際、バカみたいに「雨の日も風の日も素振りをする」よりも、バッティングの技術を向上させる他のメソッドを試すほうが生産的だと思う。
2.与えられた才能って何?
ところがその一方で、「才能」の定義はきわめて曖昧だ。才能って一体何なのだ? 誰にも真似できないほど唯我独尊の境地に達している能力のこと? あるいは、持って生まれた身体的特質? おそらく、多くの作者が考えている「才能」とは、そうしたものを指すのだろう。
能力バトル系なら、たしかに「才能」は体現しやすい。なぜなら、「戦闘民族サイヤ人は、地球人よりも戦闘の才能がありますよ」と言えばそれで終わりなのだから。こういう類の「才能」は、そもそも住む世界が違うレベルの能力差だから、まさに「才能」という一言で片ずけられる。チーターと人間を50m走トラックに並べるようなものだ。チーターには走る才能があって、それに比べれば人間には才能がない。なるほど、確かにその通りである。チーターと人間の走る速さを「相対化」させると、もはや「絶対的」と言わざるを得ないほどの圧倒的「才能の壁」がある。これをまさに「授けられた才能」と言うのなら、そうとしか言いようがない。比較するのもバカらしくなるくらいにわかりきったことではないか。
ドラゴンボールの地球人代表クリリンは、生まれや出自、肉体のスペックからして、純粋なサイヤ人のナッパには敵わないのだ。ナッパはハッキリ言って作中では格下だが、クリリンには申し分なく格上の存在だ。だから、クリリンをナッパに「勝たせる」展開はきわめて難しいし、クリリン本人には酷な話なのだ。そして当然、物語的にもちっとも面白くない。だって、クリリンとナッパの戦力差は、チーターと人間なのだから。わかりきった結果を予測できる試合なんて、誰も観たいとは思わない。
何事もやりすぎはよくないが、そうはいっても、「授けられた才能」を活かして活躍する物語もまた一興であることは疑いようがない。ぶっちゃけわたしも普通に好きである。例えば『MAJOR』の茂野吾郎は、「とんでもなく速いストレート」だけでバッタバッタと並み居るライバルをなぎ倒す「俺TUEEE」系のジャンルである。また、『ドカベン』の明訓ナインは、みなそれぞれ抜きんでた才能を持った選手たちが揃っている。驚くべきことに『ドカベン』は、鷹丘中学校編からプロ野球編まで通してみても、山田たちが努力する姿なんてほとんど描かれていない。茂野吾郎もまた、必死に努力する場面はきわめて少ない。右肩を壊してサウスポーに転向した時くらいである。基本的に『MAJOR』と『ドカベン』は「俺TUEEEE」の要素がある。しかし、どちらも非常に素晴らしい作品だ。なぜか? ありあまるセンスと才能の持ち主である茂野吾郎も山田太郎も、ライバルたちと互角の勝負を繰り広げ、「苦戦」を強いられてきたからだ。そう、彼らは勝負の世界で多くの「苦難」と「葛藤」を強いられてきたのだし、その分だけ成長したのだ。だから面白いのだ。
3.授けられた才能よりも価値のあるものとは?
「授けられた才能」を物語の一要素として利用するのは、方法と手段の問題であり、そこに正解・不正解はない。「授けられた才能」を主人公に盛り込みたいならそうすればいい。ただそれだけのことである。だが、くれぐれも忘れてはならないのは、才能のアリ・ナシに関わらず、目標を達成するために「試行錯誤」することさえできれば、実はそれで十分に「努力」と言えるということだ。だから、「授けられた才能」にあまりこだわりすぎるのも考えものである。
才能があるかないかではなく、その人が現状の問題を克服して乗り越える「信念」とか「やる気」さえあれば、物事は前へ前へと進んで行くものなのだ。むしろこっちのほうがより「リアル」ではないか。たしかに、われわれにはそれぞれ個性や特徴があり、ひとりひとり能力に違いはあると思う。それは間違いない。しかしだからといって、それをすべて「授けられた才能」という一言で括るのはあまりに短絡的である。
いま、目の前に乗り越えなければならない課題(困難)がある。そして主人公は頭をひねる。「どうすれば克服できるのだろう? 何か手はないか? きっとあるはずだ」――この苦悩や葛藤の過程もまた、「努力」を描く醍醐味である。困難に直面する主人公は、頭をフル回転させてあれやこれやと色々と手立てを講じる。明鏡止水の域にまで達することもあるだろう。やがて主人公は、死中に活を求めていく。まさしく「努力」だ。これが面白くないわけがない。もしもそれを疑うというのなら、傑作ドキュメンタリー『プロジェクトX』を観るべきだ。事実は小説よりも奇なり。現実世界には、実によく出来た「ドラマ」の実例がそこかしにある。苦難を前に悩み、葛藤し、やがて活路を見出すその姿に人は心を動かされる。「苦難」とは人生をつまずかせる「石ころ」だが、同時にまた人を成長させる「肥料」でもある。この「挫折→成長」こそが「ドラマ」の本質とさえ言える。だから有名な脚本家たちは、みな口を酸っぱくして「主人公に苦難を与えろ」と忠告しているのだ。
そう、突き詰めていえば、主人公に「授けられた才能」があるかどうかは本質的な問題ではないのである。「授けられた才能」よりも物語的に価値があるのは、困難を克服する努力の過程、すなわち「挫折→成長」なのだ。観客を魅了するカタルシスは、その過程の中で生じる。脳内麻薬物質がドバドバでる唯一無二の瞬間は、努力が実るその瞬間にこそあるのだ。
4.「なろう系」に決定的に足りていない要素は「困難」
「スポ根」モノの金字塔『巨人の星』。梶原一騎の作品は今もなお色あせない面白さがある。男の美学とか哲学というものが実直に描かれているし、演出力も高い。しかし、水を一切飲まず、ウサギ飛びしながら校庭を何周もするような古き良き「根性論」はさすがにもう古い。それについてはわたしも完全に同意である。ぶっちゃけて言うと、あの手の「根性論」は、究極の体育会系こと「旧帝国陸軍式」精神論の副産物である。ワ〇ミの社員も顔真っ青になるほど理不尽でブラックな根性論は、さすがに今の時代には通用しないだろう。あきらかに狂気じみている。
かといって、「なろう系」で言うところの「努力」、すなわち「授けられた才能」を上手に活かして活躍するような展開は、はっきり言って「努力」とは程遠いものだ。なぜなら、その手の作品は、あまりにスマートに事が運びすぎているからだ。彼ら主人公は、まずほとんどの場合、「困難」に直面しない。壁にぶちあたることなく、のらりくらりと自分の「授けられた才能」(ときにはパラメータがカンストしたチート級の能力)を活用して周囲からの尊敬を集める。何もかもがうまくいく。あっという間に成功者だ。主人公は、思い描いた通りに事を進めることができる。そこに苦難も葛藤もジレンマもない。しかしそうなるのも当然である。なろう系の大半は、カタツムリしかいない世界にチーターが突如”転生”したような内容だからだ。
わたしは「なろう系」というジャンルそのものを否定する気はさらさらない。好きか嫌いかで言われれば「好みではない」と答えるが、この種のジャンルにも実は普遍的な要素がちゃんとあるから興味深い。まあ、それについてはいずれ日をあらためて(そして気が向いたら)論じることにしよう。
とはいえ、「なろう系」の弱点、このジャンルに欠けている決定的な要素に関してはキッパリと主張したいところがある。それが今回の「努力」と「困難」の話なのである。「なろう系」は、われわれがほのかに抱いている欲望や願望(ヒーローになりたい、チヤホヤされたい、モテたい、無双したい、気に食わない奴らを閉口させるくらいの能力を見せつけたい)をストレートに表現しているという点ではユニークだが、欲望に忠実すぎるあまり、「困難」要素をことごとく奪い去ってしまっている。それにより、「困難→葛藤→(努力)→成長」という「ドラマ」を一切描くことができない。それが「なろう系」の”乗り越えられない壁”であるとわたしは断言できる。
5.なろう系は「王道」のアンチテーゼ?
小説や映画の媒体を問わず、傑作と呼ばれ、後世に語り継がれる作品たち。これら名作には、「困難→葛藤→(努力)→成長」の黄金律が根底にある。なぜ世に語り継がれるのかといえば、主人公の姿が観客に勇気や希望を与えるからだ。陳腐な言い回しになってしまうが、それは紛れもない事実なのである。苦難や葛藤は、まったくの赤の他人である主人公と観客を結びつける唯一の”絆”である。なぜなら観客もみな、主人公と同じく、苦悩や葛藤を抱えて生きているからだ。人は、境遇が似ている者に親しみを抱く。親しみを抱いた相手のことは、無条件で応援したくなる。だから共感が芽生え、物語が心に残り、世代をこえて語り継がれていくのである。
その意味で「なろう系」は、「傑作」と呼ばれる作品のまったくの対極に位置する。
- (A) 一般的な王道作品では、主人公が自分の願望(目的)を果たすために行動を起こすが、うまくいかない。
- (A’) なろう系作品では、自分の願望がスンナリと叶う。「授けられた才能」を駆使して思うままに事が運ぶ。
- (B)一般的な王道作品では、主人公が「困難」と直面し、悩みの時を迎える。信念が揺らぎ、自分自身の在り方を見つめなおすことになる。主人公にとって「現実」は苦難や葛藤ばかりの凸凹道で、時には「地獄」そのものですらある。そんな中、一歩進んで二歩下がるようなことを繰り返しながら、やがて主人公は一皮も二皮も向けて”帰ってくる”。
- (B’)なろう系作品では、主人公は悩まない。彼の歩む道は、コンクリートで舗装された滑らかな道である。石ころひとつなく、けっしてつまずかない。主人公は「困難」が訪れる前に、「授けられた才能」ですべて解決してしまう。あまりにスマートに問題を解消していくので、転生した”第二の人生”を心の底から満喫する。なろう系主人公にとって異世界とは、まさしく「天国」である。異世界で我が世の春を謳歌するなろう系主人公は、苦難や葛藤であふれる「現実」には二度と戻ってこない。
こうして「なろう系」の物語構造を抽象化して要素を取り出してみると、なかなか興味深いことがわかる。すべてがそうだとは言わないが、多くの「なろう系」作品には、「困難→葛藤→(努力)→成長」という要素を徹底して排除していることが特徴として挙げられるだろう。いまこの記事を読んでいるみなさんが「なろう系」をどう思っているのかは知らないが、「なろう系とは何ぞや?」とふと疑問に思った際には、わたしの議論を何かの参考にしていただければ幸いである。
……いったい何の役に立つのかは保証できないが。
(おわり)
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