【観客に「頭」と「心」を】セリフに頼りすぎると物語は陳腐になる(後編)【使わせろ】



今日の名フレーズ

口だけが達者なトーシロばかり、よくそろえたものですな。全くお笑いだ。

(『コマンドー』/監督:マーク・L・レスター)

 

セリフに頼りすぎると物語は陳腐になる(後編)

 

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4.どうすれば観客を物語に惹き込むことができるのか?

物語の「没入感」とは、どのようにして生まれるのだろうか? どうすれば、観客が物語に「関心」を持ってくれるのだろうか?

世界観? 雰囲気? 設定? キャラクター? それとも、観客の”好み”の問題?

私見では、どれも半分正解半分不正解だ。たしかに、これらの要素が観客を惹きつける上で重要な役割を担っていることは間違いない。しかし、これらが束になっても突破できない最大の”壁”が存在する。それが「演出」だ。演出は、観客を物語に関心を持たせて没入させるための絶対に必要な技術である。逆に言えば、演出がしっかりできないと、どれだけ秀逸な設定でも観客を魅了することはできない。

 

では、演出の核心とは何だろうか? どうすれば「関心」と「没入」を観客に与えることができるのだろうか?

じつは演出の核心は、本稿の「セリフに頼りすぎると物語が陳腐になる」という主題と直結している。

 

5.物語の「演出」とは観客に「頭と心を使わせること」

面白くない物語。”陳腐”すぎて話にもならない愚作には、何かしらの共通した問題を抱えている。そのひとつが、「言葉(セリフ)に頼りすぎている」という問題だ。登場人物の人となり背景心情情緒心の機微内面の変化葛藤苦悩動機目的。これらをすべてセリフだけで説明する愚を犯すのは、駄作や凡作にありがちである。

突き詰めれば演出とは、伝えたいことをストレートに表現”しない”技術のことである。だから、ストレートに表現さえしなければ、セリフに頼ってもいい。だが残念ながら多くの駄作は、それすらもできない。セリフを上手に扱い切れていないのである。だから問題なのだ。

 

なぜ「伝えたいことをストレートに表現しない」ことが大切なのだろうか? それはわれわれ人間が、言葉をそのまま受け取るのではなく、その言外に込められた「意味」を「察する」度な知性を持っているからである。人間とは不思議なもので、言葉で説明されるよりも、行動や態度で示されたほうがずっと理解や印象が深まる動物なのだ。これを巧みに利用するのが「演出」というわけである。

妻と子を失った男の孤独・哀愁・失意は、「丸まった背中」「伸びきったヒゲ」「散らかった部屋」がすべてを物語る。

仲間を誰よりも大切に思う気持ちは、言葉にせずとも「行動」で示すことができる。自分が仲間を大切に思っていることなんて、わざわざ口にする必要はない。そんな押しつけがましい友情などいらない。

そして観客は、これらの言葉以外の情報によって自分の心の中にキャラクター像を描いていく。そこではじめて「感情移入」が相成る。

 

できるかぎり「説明」しない――これが演出の鉄則だ。

説明しないからこそ、観客は自ら理解しようとする。画面に映る情報を拾い集め、そこから何らかの解釈や意味を紡ぎ出そうとする。気づけば観客は、物語に対して能動的になっている。これがまさしく「関心」と「没入感」を生み出すシステムだ。演出は、観客が頭と心を使うように仕向けなければ成立しないのだ。

 

6.演出のお粗末な一例――『ノー・ガンズ・ノーライフ』

漫画だけでなく、最近のアニメ―ション作品もご多分に漏れず演出力が低い。その一例として、最近アニメが始まった『ノー・ガンズ・ノーライフ』がある。原作版は読んだことはないけれど、「黙して語らず系」ハードボイルドな主人公っぽいので、うっすらと期待はしていた。

だが、第一話のあるシーンで、かなりガッカリさせられてしまった。それはまさに、「セリフに頼りすぎ」という演出に出会ってしまったからだ。ちょうどまとめサイトにそのワンシーンがまとめられていたので、切り抜いて使わせてもらおう。以下が、ガッカリ演出のシーンである。

頭がリボルバー拳銃の主人公。その引き金はとっても大切な部位(?)のようで、よほど認めた相手じゃない限り、決して触らせるつもりはないようだ。頭の引き金は、主人公の人となりを象徴するキーポイントというわけである。しかし、この二人の会話は、非常に説明がましく、それゆえ押しつけがましさを感じざるをえない。

「そして俺は誰も認めるつもりはねーんだよ」は、明らかに余計なセリフだ。おしゃべりが過ぎる。それを言わないほうが、観客は主人公に対して関心を強めるはずだった。「頭の引き金を引かせる相手はいるのだろうか? だとすれば、どんな人物なのだろうか?」と。

一方、「十三ってさ。ずっと引き金預ける相手探してる気がするのよね~」最悪である。説明口調すぎて気味が悪い。頭の引き金を預ける相手は俺の認めたヤツだけ、そしてそんな”相棒”をいまでもずっと探している――これをセリフで全部説明して一体どうしようというのか。このワンフレーズで、わたしの頭の中は思考停止した。物語に入り込む機会を失ったも同然だった。押しつけがましい説明セリフによって、物語と自分のあいだに、解消し切れない距離感が生じてしまったのである。

お粗末としか言いようがない。

 

7.演出とは「遠まわしの美学」である

みなさんも”とっくにご存じ”のドラゴンボールのこのシーン。あまりに有名すぎるのでいまさら語るまでもないが、しかし「怒り」の演出としてこれは好例である。冷酷なフリーザによって無残にも”肉花火”に処せられたクリリン。戦友でもあり親友でもある彼の死に対する悟空の悲痛な感情が、「クリリンのことかー!」凝集されている。

「よくも大切な仲間を!許さない!」といった類の直接的陳腐な言葉はどこにも含まれていない。ただただ、「クリリンのことかー!」と叫んでいるだけである。だが、悟空の怒りや悲しみはひしひしと伝わってくる。有名すぎて色んなネタにされているが、屈指の名シーンである。そしてこれが、演出というものである。

テーマしかり、キャラクターの感情しかり、伝えたいことはストレートに表現せず、遠まわしに伝える。「遠まわしの美学」。これが演出の核心だ。「物語」だからこそできる特別な技法である。

 

8.人間の本質を理解しろ

観客が頭と心(感性)をはたらかせて、想像を膨らませる余地をつくること。それが、演出の意義である。

画面の前の主人公はいま、何を思っているのだろうか? 悲しんでいるのか? 喜んでいるのか? 不満に感じているのか? 憎しみを抱いているのか?

そして主人公は、何に対して喜びを感じ、怒りをおぼえるのか?

なぜ彼は、わざわざ憎まれ口を叩くのか? なぜ彼は、公園で楽しそうに遊んでいる子供をみて悲しそうな目をするのか? なぜ彼は、死の直前にほほ笑んだのか? なぜ彼は、独身の身で犬を飼っているのか?

――登場人物の一挙手一投足には、すべからく「意味」がある。一流の作者は、それを通じて観客に何かを伝えようとしている。言葉で伝えれば陳腐になるけれど、言葉で伝えないからこそ伝わるものがある。そして観客は、キャラクターの言動やふるまいに「人生」の片鱗を見る。人となりは、キャラクタープロフィールでは語り切れないのだ。そんな安っぽいものではない。むしろ、プロフィールをご丁寧にお披露目すればするほど、キャラクターは安っぽくなっていく。字面だけで人生は見えてこない。言動やふるまいには、長年にわたって積み重ねられてきた「習慣」が沁みついており、それが人生そのものを表象するのだ。演出は、この人間の本質を理解しなければならない。

こうした演出の核心をないがしろにしてしまっては、物語そのものを否定することになりかねない。みなさんも作品を作るなら、いい作品にたくさん触れ、たくさん批評し、ぜひとも演出のセンスを磨いてほしい。

 

(おわり)



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石山 広尚(いしやま ひろなお) 1991年うまれ。 札幌在住のライター。 一時期は社会学の研究者を志していたが、ひょんなことから友人と同人誌をつくることになり、それがきっかけで「創作」の世界にどっぷりハマる。小説サークルを主宰し、「批評」の重要性を痛感する。 ・大学院時代の専門:思想史と社会学 ・好きな作家:H.G.ウェルズ、オー・ヘンリー、ポール・ギャリコ、スティーブン・キング ・好きな映画:ゴッドファーザー、第三の男、ターミネーター2