今日の名フレーズ
曖昧な批評は稿を改めるに当たって何の役にも立たないどころか、それ以上に害になる。文章や筋の展開など、作品の本質に触れていない批評はただの冷やかしで、耳を傾けるべきではない。
(『小説作法』スティーブン・キング/訳: 池 央耿)
セリフに頼りすぎると物語は陳腐になる(前編)
1.「物語のテーマ」はキャラクターに直接言わせてはならない
「命の尊さ」をテーマにした物語のラストシーン。もしもこのとき、「命は大切にしなくてはならないんだ」というセリフをキャラクターの誰かが吐いたとしたら、わたしは絶対に「金を返せ!」と叫ぶだろう。映画館だったらさすがに大人しくしているかもしれないが、家で鑑賞している時なら間違いなくリモコンをぶん投げている。
「命の尊さ」をテーマにした物語で、「命は大切にしなくてはならないんだ」というセリフが挿入される……これは物語の中でもとっておきのタブーである。もしもこの演出の違和感に気づかないというのなら、今からでも遅くはないので大傑作の『ゴッドファーザー』を10回は観直して優れた演出とは何たるかを知ったほうがいい。まだ間に合う。しかし、それでも違和感に気づかないのだとしたら……そのときは潔く諦めるしかない。


物語にとって「セリフ」は、非常に重要なファクターだ。登場人物たちを活き活きと動かし、文字通り作品に”命”を吹き込む。だが、セリフは時として”毒”にもなる。多用しすぎると、作品を死に至らしめることもあるのだ。まるで酸素みたいである。
なぜセリフを多用すると作品をダメにするのか? この問いに対する説明は、人によって多少答え方に違いはあるけれど、核心部分はだいたい共通している。それすなわち、「物語で伝えたいことをセリフで直接言ってしまうと、物語である必要がなくなる」ということだ。「命の尊さ」をテーマにするなら、「命の尊さ」をどんな物語と展開で観客に伝えるかを考える。それが物語という表現媒体の意味なのだ。
2.物語で「テーマ」を伝えるとはどういうことなのか?
このとき、「けっきょく物語のテーマって言葉で完結できる程度のものなの?」と疑問に思う人もいるかもしれない。実は、まさしくその通りである。物語のテーマというのは、言葉にすればあっという間に完結してしまうとても短い”メッセージ”に過ぎない。
たとえばある囚人が、殺人を犯してしまった過去を深く後悔し、講演活動を通じて「取り返しのつかない過ちを犯してはならない」というメッセージを不良少年たちに発信していくとしよう。彼は講演中、何度も何度も「取り返しのつかない過ちを犯してはならない」という言葉を繰り返すかもしれない。だが、そのメッセージはとても重く、価値がある。たとえ話下手でも、その元・囚人の気迫や思いは十分に伝わってくるはずだ。
一方で作家は、「取り返しのつかない過ちを犯してはならない」というメッセージを、「言葉」ではなく「物語」で表現しようと試みる。それこそ、その囚人の半生や過ちを犯すに至った経緯、そして「後悔の念」に駆られる瞬間にスポットを当てようとするだろう。「後悔」は、ネガティブな感情を伴ってはいるものの、それは間違いなく、その人が自身の中で何らかの「気づき」や「発見」をしたことで生じる「変化の証」なのだ。主人公の精神的な「変化」を描けるものはすべからく物語として成立する。だから作家は物語という表現をとる。物語という表現形式は、言葉では伝えきれないほど豊かなニュアンスを相手(観客)に伝えることができるからだ。
囚人が言葉で伝えたいこと、作家が物語で伝えたいこと。どちらも結果的には同じである。「取り返しのつかない過ちを犯してはならない」というメッセージがたったひとつのゴールなのだ。しかし両者は、テーマ(メッセージ)に行きつく手段と方法がまったく異なっている。それにより、受け取り手の印象や感じ方、生じる感情もかなり異なったものになる。しかし、それが「表現」というものなのだ。
もう言いたいことはおわかりだろう。
言葉で表現するメッセージと物語で伝えるメッセージ。内容は同じでも、表現形式に違いがある。違いがあるからこそ、双方の領域の「意味」が保証されているのだ。言葉だからこそ伝わるものがあるし、物語は確かにメッセージに行きつくまでの過程が”まどろっこしい”かもしれないが、その分だけ観客の感性と感情を揺さぶる「言外の力」がある。
では、もしもこのとき、物語の中で伝えたいメッセージを直接「言葉」にしてしまったら? その時点で、物語としての価値が著しく損なわれてしまうだろう。物語を通して伝えたいメッセージを最終的に「セリフ」に頼るくらいなら、そもそも物語なんてつくる必要がない。時間の無駄である。初めから「取り返しのつかない過ちを犯してはならない」と書いたプラカードを持って映画館の前で立っていればいい。
物語で伝えたいことを、そっくりそのまま直接的に言葉(セリフ)で表現してはならない。このタブーを守れるかどうかで、作品の質は大きく変わってくる。そして、多くの”陳腐な作品”は例に漏れず、ことごとくこのタブーを破っている。もしあなたがツバを吐き捨てたくなるほどの「つまんない作品」と出会った時は、登場人物たちの言動に着目してみてほしい。きっと、セリフの中に何らかの問題が見つかるはずである。
……ところで、しばしば難しく考えすぎるあまり、一言ではとても説明し尽せないような”高尚なテーマ”を物語に掲げようとする人がいる。「フロイト哲学と自己言及性をテーマにしたい」と思うのは勝手だが、残念ながら明らかに”畑違い”と言わざるをえない。それは「物語」ではなく、「芸術」で追求すべきテーマである。「シュルレアリスム」は実際そうして生まれたのだから。そういう哲学的で抽象的なテーマに関心があるのなら、さっさとペンを折って筆をとり、カンバスに向かうことをオススメする。
3.言葉(セリフ)に頼るのは自信の無さの裏返し?
わたしにとり、近年の少年漫画は非常に演出のレベルが低いと思っている。その原因のひとつは、それこそ今回の主題である「セリフに頼りすぎ問題」に見いだせられる。
とにかく説明口調の度が過ぎている。キャラクターの人となり、心情、心の機微、内面の変化、動機、目的。これらを読者に伝える手段がぜ~んぶセリフ任せなのだ。
例えば典型的なのは、わたしも少年時代から愛読していた『ワンピース』(アラバスタ編以降読まなくなってしまったが)。あの漫画が登場して以来、すっかりジャンプ漫画の方法論として「オレは〇〇になる男だ!」技法が定着しているように見受けられる。これは、主人公の夢(目的)を明確にする定型句として今ではすっかりよく知られている。確かに、読者に伝える方法としては強力かもしれない。だって、本人がそう言ってるんだからそうだとしか言いようがないではないか。
だが、「オレは海賊王になる男だ!」というセリフは、ルフィというキャラクターが成立しているから許容されているだけなのであって、他のキャラクター造形にも適応されるわけではない。むしろ大部分が不適合である。少年時代のルフィは、シャンクスたち海賊に憧れるあまり、自分の頬にナイフを突き立てるほどアホで純粋なのだ。その人となりがわかっているからこそ、「オレは海賊王になる男だ!」という”アホみたいな”セリフにも違和感がない。「ルフィならそんなこと言うかもね」と思わせる説得力と文脈が、第一話にはちゃんとあるのだ。
しかし、他の作品ではどうだろう。読者との距離感もろくにつかめないのに、なんの前触れもなく、いきなりその主人公が「自分語り」をおっ始めていやしないだろうか?
「俺は〇〇になりたいんだ!」――
……あっそうですか(あんた誰?絶対コイツとは友達にならんとこ)。
主人公の言動や行動を通じて観客に「目的」や「動機」を伝えることはもちろん必須だ。しかしだからといって、何のお膳立てもない状況で「僕は〇〇になりたいです」「〇〇したいんです」と最初から本人に直接言わせるのはさすがにIQが低すぎる。こうした類の演出を見せられるだけで、わたしは辟易してしまう。
総じて、キャラクターのセリフに頼り切るこうした演出には、「作者の自信の無さ」がありありと見てとれる。自分が創造したキャラクターであるはずなのに、直接口で言わせないと彼らの心や行動が理解できないのだ。まるで、「愛している」と直接言わないと愛情を確証できない疑心暗鬼の恋人ではないか。
さて次回は、物語のテーマをセリフで直接言わせてはならないもうひとつの理由についても触れていこうと思う。物語のテーマとセリフの関係は、それだけ重要で濃ゆい話なのである。
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