今日の名フレーズ
脚本は技術であり、芸術である。私は、数千もの脚本を読んでいくうちに、常にいくつかの点をチェックしながら読むようになった。
まず、ページがどのような状態であるかを見る。
余白部分がじゅうぶんにあるか?
パラグラフの密度が濃すぎることはないか?
会話が長すぎないか?
またその逆もしかりで、ト書きが短すぎないか?
会話の内容が濃すぎないか?
(『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』シド・フィールド/訳:安藤紘平・他)
自分で自分の作品にツッコムということ
1.作品が面白くないのは、本当は自分がよくわかっている
物語を書いているとき、その内容が果たして本当に面白いかどうかがだんだんわからなくなってくる時がある――という話は、わたし自身このブログでよく言っているし、著名な著述家たちもよく口にすることだ。だからこそ、積極的に他人に作品(あるいはプロット)をみせて、忌憚なく批評をしてもらうことが肝要なのだ。
だが、わたしの経験からすれば、多くの場合、「これ、本当に面白いのかな?」と疑念を抱いている時点で、本当は自分自身が「何か問題がある」ということをすでに本能が察している。そして多くの人は、その”不吉な予感”をなんとか振り払おうという誘惑に駆られ、「いや、気のせいだろう。面白いはずだ」と思い込もうとする。
結論から言えば、「内容が果たして本当に面白いかどうかがだんだんわからなくなってくる」のは、自分の心の中に住んでいる「冷静な批評家」が警告を鳴らしているからに他ならない。その物語にはいくつものツッコミどころがあり、話のテンポを悪くしていたり、登場人物たちの心情や動機にいまひとつ説得力に欠けている点があるはずなのだ。”もうひとりの自分”こと「冷静な批評家」は、「物語の違和感」をご丁寧に指摘してくれている。それが結果的に「本当に面白いのかな?」という疑念となって表出しているのである。
2.自分で自分の作品にツッコム勇気が必要
「せっかく秀逸なアイデアなのに……」という自分のワガママは、作品をより良くするチャンスをことごとく潰してしまう。たしかに、アイデア自体は良いのかもしれない。あなたがそう思うのなら、やはりそうなのだろう。だが、そのアイデアを物語として活かしきれなければ何もかも無意味であることを忘れてはならない。
当ブログでは「批評の大切さ」をつとに強調している。これは、作品を自分でつくる人間には絶対に必要な力なのだ。自分自身が批評する力(面白い理由・面白くない理由を言葉で説明する力)を身につけると、自分の作品に対して誰よりも厳しい目で見つめなおすことができる。
つまり、自分のつくった作品に自分がツッコムことが作品をブラッシュアップさせるのだ。他人からの批評はその次の段階にある。
なかなかに倒錯的だが、自分自身をもメタ視点で眺める「複眼的思考」は作品づくりに欠かせない。むしろこれができないと、作品がことごとく「妥協の産物」と化してしまう。無駄な場面、無駄なセリフ、無駄な構成、無駄なカット。作品のあらゆるところに「ツメの甘さ」が出てしまう。そういう誤魔化しは、作品の質にかなりマイナスの影響を及ぼしてしまう。
3.ツッコミどころ満載でも最後まで書き終える「駆け抜け力」も必要
プロットの段階で、たいていのツッコミどころは解消できる。物語の論理的整合性や、登場人物たちの動機や行動の正当性は、物語全体を俯瞰できるプロットならではだ。
だが、いざ物語を書き始めたときに見えてくるツッコミどころもあるのは事実である。
プロットの微調整程度でその問題が解消されるなら、さっさとやってしまったほうがいい。だが、だいぶ書き始めてからそのツッコミどころに気づいてしまったのなら、いっそエンディングまで書き終えてしまうのも手だ。なぜか? ツッコミどころに気づくたびに作品を書きなおすのは非常に労力を伴うし、作品を構想していた頃のモチベーションや”勢い”が徐々に失われていくからだ。物語を書く気力さえ無くなってしまっては、元も子もない。それよりも、粗削りながらも、オープニングからエンディングまでを一気に書き上げてしまったほうが得るものは大きい。
多くの名作家や脚本家が口を揃えて言う。「どんなことがあっても、まずは作品をラストまで書き終えろ」と。いったんラストまで書いておくと、どんなところに修正が必要かを全体的として把握できる。そして、「ひとまずラストまで書き切った」という自信もつく。あとは安心して自分の作品にツッコミをいれまくろう。自分が「お客さん」だったら、どんなレビューやクリティークをするだろう? このロールプレイにのっとって、作品を見つめなおしてみるとたくさんの発見がある。
(おわり)
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