プロットを見せるべき相手とは?



今日の名フレーズ

ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並みや通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。

(『ガラスの街』ポール・オースター/訳:柴田元幸)

プロットを見せるべき相手とは?

 

①いちばん読ませたい人に見せる

 

以前の批評で「プロットは最低でも3人以上に見せるべき」と論じたが、それではその「3人」とはどんな人物なのか?

気心の知れた創作仲間が3人いれば、ひとまずは悪くないと思う。「恥ずかしくて見せられない」よりはずっとマシである。

ただ、仲が良すぎるのも考えものだ。相手に気を使って厳しい批評ができなくなってしまうかもしれない。それではプロットを他人に見せる意味がほとんどなくなってしまう。

 

プロットを見せる3人のうちで、もっとも最高な相手は誰だろうか?

それは、「物語を読ませたい相手」である。

つまり換言すれば、「この物語で”面白い”と言わせたい相手」である。

 

昔からよく言われていることだが、物語は「みんなに楽しんでもらえばいいな」と思って書くよりも「あの人を楽しませたい」と明確に「読ませる個人」を設定したほうがいい作品を作れる。

具体的に読ませたい相手を想定していれば、「自分がこの物語を通じて何を描きたいのか(テーマ性)」を意識できるし、独りよがりの意味不明な”ポエム”を書くような愚を犯さずに済む。

興味深い事実として、「まず最初に作品を読ませる相手が自分の妻」と挙げる有名作家たちが意外に多い。

 

物語をいちばん届けたい相手に見せて、反応をうかがう。

これがまずなによりも大切な一歩だ。

反応が悪ければ、やはりプロットやテーマを練り直したほうがいいだろう。考えてもみてほしい、楽しんでもらいたい人が楽しめないような物語では本末転倒ではないか? それでは、いったい何のためにその作品が存在するのかも疑わしくなる。そのような作品は、けっきょく誰の心にも響かない。

 

②アホにも理解できるか?

 

脚本家ブレイク・スナイダーは、”物語には、原始人でも理解できるような人間の普遍的な動機が必要だ”と言っていた。

これはあくまで比喩表現に過ぎないが、しかし「普遍的な要素」が物語に不可欠なのは間違いない。

悪いやつを倒す、金持ちになる、成功者になる、好きな子を射止める、家族を守る、生き残る……物語を物語たらしめている根本的な「目的」とは一体何なのか? これを相手に”スムーズ”に理解させることができなければ、その時点で作品はズッコケる。

 

自分の物語はどれだけの人に伝わるのだろうか? それを確かめるには、ズバリ「アホにプロットを読ませる」のがいいだろう。

なぜなら、アホだろうとインテリだろうと、彼らが人間である以上「家族を守る」という主人公の普遍的な欲求(動機)は理解(共感)可能だからだ。

いちばんマズイのは、インテリ同士が物語を見せあっこすることだ。これはあまりオススメできない。インテリは、インテリにしか分からない独特の言語感覚で物語を複雑化しようと目論んでしまう傾向があるからだ。とくにこれは、専門用語満載のSF作品にありがちである。「それで、けっきょくこの物語は何をする話なわけ?」と尋ねても、グダグダと言い訳がましく設定やら世界観やらを説明するだけで、いっこうに「本題」に入らない。これは一番最低なケースである。

こうした”致命的な思い上がり”を未然に防ぐためにも、あなたが正直いって「アホ」だと思っている人にプロット(あるいはログライン)を説明してみるべきだ。そして、「それ、なんか面白そうだな」と言ってくれることを願おう。

ちなみにここでいう「アホ」の定義はみなさんにお任せしようと思う。わたしの知り合いには、「普段から映画とか小説とかに興味ない人間」とか「面白い理由を答えられない人(なんで面白いと思っているか自分ですらよくわかっていない)」をアホと定義している人もいる。あながち悪くないかもしれない。そういう”ピュア”な人にさえ「面白そう!」と思わせることができるなら、その物語はかなりの訴求力を持っているはずだ。

 

③気心の知れた仲間に見せる or 辛口なヤツに見せる

 

3人目の候補には、「気心の知れた仲間」「辛口批評なヤツ」がいいだろう。

どちらがいいかは自分で決めるといい。

「気心の知れた仲間」からそこそこの評価をもらって”安心”するのは罪ではない。ただし、うわべを繕った「面白い」という言葉には要注意だ。そういうときは最低でも「何が面白かった?」「なぜ面白いと思った?」と聞き返したほうがいい。そうでなければ、プロットを見せる意味がない。

 

そしてもうひとつの候補として挙げられるのが、「辛口批評なヤツ」。コイツは、展開の運び方や、論理的整合性、登場人物たちのセリフ回しの不自然な部分をチクチクと突いてくる。この「辛口批評」タイプは、小姑のように物語の細部に言及し、”あらさがし”をしてくる。ハリウッド業界でいうところの「スクリプター」と呼ばれる仕事に近い。相対的に嫌われ役になりがちだが、最終的に物語をブラッシュアップするには絶対に必要な存在だ。

……まあ、ぶっちゃけいうとわたしみたいなタイプである。しかし実際にわたしはこういう作業を頼まれることがあるので、真剣にいい作品をつくりたいと思っている人々には必要とされていることは間違いないだろう。脚本や構成の”あらさがし”は、相手を凹ませるためにやっているわけではない。少しでもいい作品になる可能性があるなら、そのほうがいいに決まっている

「辛口批評」タイプのなかには、「難癖」を「批評」と取り違えている者もいる。その点には注意されたい。

 

以上、今回はプロットを見せるべき「3人」のタイプの一例を紹介してみた。参考にしていただければ幸いである。他人からの「批評」は作品を育てる「水」のようなもの。ぜひ第三者の目線に作品を晒して良い作品をつくってほしい。

 



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石山 広尚(いしやま ひろなお) 1991年うまれ。 札幌在住のライター。 一時期は社会学の研究者を志していたが、ひょんなことから友人と同人誌をつくることになり、それがきっかけで「創作」の世界にどっぷりハマる。小説サークルを主宰し、「批評」の重要性を痛感する。 ・大学院時代の専門:思想史と社会学 ・好きな作家:H.G.ウェルズ、オー・ヘンリー、ポール・ギャリコ、スティーブン・キング ・好きな映画:ゴッドファーザー、第三の男、ターミネーター2