【ネタバレ漫画批評】『最後の西遊記』が打ち切られた原因【”危機”が訪れるまであと何マイル?】



今日の名フレーズ

人は誰しも、それぞれの考えがあり、興味の対象や、懸念の種がある。私と同じで、それは人生体験の波風から生まれたものだろう。私の主題と共通するものもあれば、かけ離れたものもあって不思議ではない。が、いずれにせよ、人はきっと何かを持っている。だったら、それを書けばいい。関心や疑問の形で意識に上がる心象がすべて作品の素材になるとは限らないが、使えるものがあるとしたら、活かさない手はない。

(『小説作法』スティーブン・キング/訳:池 央耿)

 

最後の西遊記 最終回 打ち切り 理由

総合レビュー:65

漫画:野々上 大二郎(ののうえ だいじろう)

所収:週刊少年ジャンプ/2019/第38

【『最後の西遊記』批評記事まとめ】

”危機”が訪れるまであと何マイル?――打ち切られた原因を考察する

 

ダラダラと『最後の西遊記』の批評をサボっている間に、とうとう打ち切られてしまった。

個人的にはわりと好ましい作品だったので残念でならないが、一方では「やっぱりそうなるよな」という仕方ない思いもある。

端的に言えば、「展開が遅すぎた」のである。これは、しばしば一流の脚本家ですら冒してしまう致命的で陥りやすいミスであり、物語をつくるうえで非常にセンシティブな問題なのである。『最後の西遊記』は、まさにその罠にかかってしまっていたのだ。

以下では、その理由について順を追って説明していこう。

 

①冒頭に示された秀逸な”ツカミ”

連載一話目を読んだとき、わたしは「いいツカミ」だなとシンプルに関心した。

読者のみなさんもきっと憶えていることだろう。球体関節の姿をした女の子が暗闇のなかひとりでイスに座っているシーンを。

最後の西遊記 打ち切り 理由

素晴らしいツカミである。これを見せられたら、続きが気にならずにはいられないではないか。

「この作者、わかってるな」というのが第一印象だった。洗練された演出だと思う。

なににもまして、観客の関心を引きつけるのが「冒頭」で成さねばならない仕事だ。小説、映画、ドラマ、マンガ、アニメ。あらゆる表現形式に関係なく、冒頭が作品の命運を左右する。冒頭は、作品の雰囲気・展開・ジャンルを包括して観客にほのめかす重要なシーケンスである。

えてして観客とは、新しい物語と直面したとき「扉」の前でオドオドと右往左往するものだ。「面白いのかな」「入ってみようかな」と決めあぐねている。だから作者は、物語に興味を抱いてもらえるように「作品の情報」を与えて「安心」させねばならない。そのために冒頭は存在する。

その意味で『最後の西遊記』の冒頭はそのハードルをクリアしていると言えるだろう。

 

この作品の冒頭から匂ってくるのは、やはり「不吉」である。『最後の西遊記』と銘打っているわけだし、おそらくこの球体関節の女の子が最終的に「不吉」をもたらすのだろうということが予想できる。どんな恐ろしいことが待っているのだろう? 想像が膨らまずにはいられない。”恐ろしい出来事”は、観客の好奇心を掻きたてる甘い蜜だ。よくできた物語には、人間の”恐ろしい出来事”を覗き見たいという本能的な衝動がうまく仕込まれている。

しかし同時にまた、「不吉」は「冒険」の始まりでもある。「冒険」はつねに「不吉」と共にある。不吉な出来事があるから冒険が始まるのだ。主人公たちは、不吉の根源を断ち切るために長い旅に出る。これは、少なくとも1000年以上昔から変わらない普遍的な物語の基本だ。その典型例として『桃太郎』『スターウォーズ』『指輪物語(ロードオブザリング)』を挙げておけば十分だろう。個人的には『ターミネーター2』も合わせて推しておく。サラ・コナーとジョン・コナーの旅は、二人に不吉をもたらすT-1000との闘争のためにあった。だが、T-1000もまたジョン・コナーという不吉の根源を断ち切るために過去を旅した存在だったというのは皮肉である。

『最後の西遊記』の冒頭に登場する謎の球体関節の少女。このシーンからは、たった1ページでありながらも、物語が「面白くなりそうだ」という予感を抱かずにはいられない”厚みのある情報”がちりばめられており、とても良くできていた。

これで、読者がページをめくる動機を確保できた。ワクワクしながら読み進めるその先に、”お目当て”の展開が待っていると期待するからだ。その期待とはつまり、冒頭で示された球体関節少女が不吉をもたらす瞬間と、「最後の西遊記」が始まる”その時”である。

 

②……それで、いつ『最後の西遊記』は始まるの?

さて、ここから本作品の問題点、つまり最終的には「打ち切り」という憂き目に遭ってしまった理由に言及していくことになる。

この作品は、残念ながら「最後の西遊記」を迎えることなく最終回になった。つまり、主人公たちの冒険が始まる前に連載が終わってしまったのである。

よくよく考えてみると、これは驚きである。桃太郎が鬼退治に行く前に物語が終わったも同然だ。

いったいどうしてだろうか? その理由は簡単で、本編でいつまでたっても「最後の西遊記」を始められなかったからである。

 

わたしは記事のひとつで、「いつ”最後の西遊記”は始まるの?モタモタしてたら読者が離れてしまうぞ!」と評したことがある。

……まあ、つまりはそういうことなのだ。けっきょく、当時に書いた”恐ろしい不吉な予感”が、見事的中したと言わざるを得ないだろう。

せっかく第一話の冒頭で見せた”危機”や”不吉”を煽るシーン。あの球体関節の少女がネット動画で世間に晒されるシーンに行きつくまでに、長い時間をかけすぎたのだ。というか、けっきょくそのシーンにすら到達できなかった。すべての元凶はここにある。”お楽しみ”は一体いつになったら見られるのか? 歯がゆい思いをしながら本編を追っていた読者もけっして少なくはないはずだ。冒頭の強烈なシーンが頭を離れなくて、それをはやく見せてほしくて、第一話以降に展開されたエピソード内容がほとんど身に入らなかった読者がきっといたはずである。ヒザをユサユサとゆすりながら、フラストレーションを抱えながら読んでいた読者がきっと日本中のどこかに――というか、まさにわたしがその一人であった。

脚本で「やっちゃいけないこと」のひとつに、「主人公たちに迫りくる危機が遅すぎる」というものがある。先ほども触れたが、物語の”火蓋”を切って落とすのは、主人公たちを行動や冒険に駆り立てる「危機(あるいは不吉)」なのだ。それがあって初めて、物語は動き出す。『最後の西遊記』が実際に「最後の西遊記」を始めるには、冒頭で丁寧に示してくれた球体関節の少女(コハル)がネットで世界中に晒されなければならない。にもかかわらず、本編では一向にそのシーンが登場しない。いや、その気配すらない。これでは、第一話の強烈なファーストインプレッションに期待を膨らませた読者が離れていってしまうのも無理はない。

わたしも脚本を書いたりするので、この「主人公たちに迫りくる危機が遅すぎる」には細心の注意を払っている。これまで「ダメな映画」(あるいはダメなアニメやドラマ)をたくさん見てきた人間には、この戒めが痛いほどよくわかるはずである。あくびが何度も出てしまったり、あまりにも退屈すぎて内容がちっとも頭に入ってこない作品にだいたい共通する特徴がまさにこれなのだ。いまここに、名脚本家のブレイク・スナイダーを引用しておこう。彼の言葉がすべてである。

「悪役がいるのに、主人公からはるかに遠く離れている。もしくは主人公に攻撃を仕掛けてきても、そのスピードがあまりにノロい。絞首刑の縄を気抜けするほどゆーっくり締めるようなもの。観客は思わずスクリーンに向かって叫び出したくなる。「氷山、遠すぎ!」私だったらそう叫ぶね。危険の迫り方があまりにもゆーーっくりということだ。ハラハラドキドキのはずなのに、全くハラハラしない。(中略)危険とは、今そこにある危機でないとダメなのだ。自分が愛する人たちに迫り来る危険じゃないといけない。そして危険が迫ったらどれほど悲惨な結果になるか、観客が最初から想像できるようにしておく。」

 

③第一話以降のエピソードがすべて無駄だったかというとそうでもない

これまでの議論をふまえると、この作品の問題点は「さっさと本題に入りやがれ!」と読者に思わせてしまったという点に終始することになる。

では実際のところ、第一話以降で描かれたエピソードはあまりに時間をかけすぎたと言い切れるのだろうか?ウダウダやってないで、さっさと「最後の西遊記」を見せてくれという見解は本当に妥当なのだろうか?それについては、「冒頭であのシーンを見せた以上はその通りだ」とわたしは結論する。冒頭で”見どころ”を提示した以上、”見どころ”を期待してページをめくり、物語に付き合ってくれている読者に応えるのがスジであることはまず間違いない。

かといって、第一話以降のエピソードがことごとく無駄であったとはさすがに言えない。個人的にあまり好きではないエピソードがあったにせよ、全体的に興味深い内容だったと思う。おそらく、作者が「妖怪」だとか「蒙」という概念を通じて描きたかったことがたくさんあったのだろう。だが、それに時間をかけていくにつれて当然「さっさと本題に入りやがれ!」という読者の堪忍袋はパンパンに膨れ上がっていってしまう。

私見では、作者はハードカバーで装丁された分厚い長編小説のような感覚で『最後の西遊記』を描こうとしていたのかもしれない。「まあ、まあ、ゆっくりみていってくれよ。”お楽しみ”はちゃんと用意してあるからあわてずに」とでもいったところだろうか。実際、物語にはそういう描き方もあることは確かだ。『最後の西遊記』は、まさに「西遊記」という壮大な長旅を想起させる言葉をタイトルに埋め込んでいるわけだから、「長編」を意識した作者の構想があったというわたしの見解も、あながち的外れではないと思う。

ここが難しいところではある。自分自身、長編はかなり苦手なタイプだ。その昔、小学校の図書館で『封神演義』という古代中国ロマン満載の伝奇小説をかじったことがあったが、漫画版のフジリュー『封神演義』のイメージで読んだものだから、かなり面食らったのを覚えている。原作版『指輪物語』もかなり苦手だったりする。いまだにわたしは”トールキン恐怖症”である。

わたしのような長編苦手なタイプは、「長い前置き」にはけっして耐えられない。ひどい病を患っている者なら、ページをめくる前に「さっさと本題に入りやがれ!」と心が叫んでいたりする(つまりわたしである)。長編が大好きで、ゆっくりと腰を据えて物語を味わうことができるなら、もしかすると『最後の西遊記』のスローストロークな展開にも足並みを揃えることができたのかもしれない。だが、どんなに長編フェチの人間だって、冒頭にあの強烈なシーンを最初に見せつけられたら、「いつ最後の西遊記は始まるのだろう?」という疑問が頭をもたげてしまうはずである。

 

④作者の体感時間、読者の体感時間

『最後の西遊記』という作品を通じて、わたしは「作者の頭の中をもっと覗いてみたい」という気持ちにはなっていた。

だが、残念ながらタイムリミットがきてしまった。

けだし、作者と読者の間には共有しがたい「時間」の感覚がある。体感時間のズレと言い直すこともできよう。誰でも作者は、自分の描きたいものを優先的に表現しようとするし、自分の描くものはすべて平等に価値があって、順番に論理だてて開示していくべきだと思っている。とくにこれは、”頭のいい”作者が陥りやすい罠である。物事を論理だてて考えたり表現しようとする作者は、自分の思考を読者もトレースして物語を追ってくれるはずだと考えてしまうのだ。論文や学術書を読みなれている人は、この致命的な「思い込み」にハマりやすい。だからそこで、作者と読者のあいだに、「時間」のズレが生じる。作者は「じっくり」と物語を楽しませようとしているが、読者は「もったいぶった」印象を受けてしまう。

物語は、自分の描きたいものと、観客が求めているものとのすり合わせが不可欠である。とくに、エンターテインメントとして物語をつくる場合は絶対に避けては通れない。

自分が描きたいものが、読者にストレスを与えないだろうか?読者の心は、いまなにを求めているのか?このことに思いめぐらせる精神的なゆとりを確保するためには、自分の作品を冷静に見つめなおす時間が必要だ。だが、自分ひとりで見つめなおすだけでは不十分である。こんなときにこそ、他人からの「批評」が絶対になくてはならない。プロットを他人に見せて批評してもらうのは当然の行程なのだ。最低でも3人以上の人間にプロットを読んでもらって、貴重な意見を頂戴しなければならない。

もしかしたら、「それで、いつ最後の西遊記は始まるの?」という声が聞けたかもしれないのだから。

 

(おわり)



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石山 広尚(いしやま ひろなお) 1991年うまれ。 札幌在住のライター。 一時期は社会学の研究者を志していたが、ひょんなことから友人と同人誌をつくることになり、それがきっかけで「創作」の世界にどっぷりハマる。小説サークルを主宰し、「批評」の重要性を痛感する。 ・大学院時代の専門:思想史と社会学 ・好きな作家:H.G.ウェルズ、オー・ヘンリー、ポール・ギャリコ、スティーブン・キング ・好きな映画:ゴッドファーザー、第三の男、ターミネーター2