
脳味噌から「知」をひねり出すコラム:「孤独な人々」と「平均的な人々」
いつの時代にも、現実を見せつけられて煙たがる読者はいる。しかし、それは書き手の問題ではない。まっすぐに物を言う覚悟もなしに作家を志すとしたら、その方がよほど深刻だ。
(『小説作法』スティーブン・キング/訳:池 央耿)
・以前のコラム【ブレない信念をもつ人間の魅力はどこにあるのか】でも論じたが、確固たる信念をもつ人々は、人間的な魅力にあふれ、尊敬を集めるが、その一方で、成功を収めるまでは、周囲から理解されず冷遇され、大いなる孤独を味わってきた。
・「理解者」がいないという事実ほど、辛く残酷なこともない。

・人間は社会的な動物である。他者との協調を重んずる集団的傾向が遺伝子レベルで刻まれている。
・よく「日本人は集団志向」「欧米人は個人主義」なんて言われるが、それは真っ赤なウソである。レッテル貼りもいいところで、この種の議論は戦後の知識人が敗戦のコンプレックスからつくりあげた幻想に過ぎない。
・結論をいえば、古今東西、人種や国に関係なく、人間は「集団」を重んじてきたのである。だからこそ、他者との協調性、つまり「相手に理解されること」は第一義的に重要なのである。

・しかしそんななかで「孤独な人々」は、しばしば「相手に理解される」という条件を満たせないアウトローな存在である。
・「そんなことできるはずがない」「あいつはクレイジーだ」「あいつには関わらないほうがいい」とか、まあとにかく好き放題言われるのである。
・なんとも可哀想な話だが、じつはこのような「異質なものを排除しようとする」動きは、集団志向の動物である人間が、「社会」という集団秩序を維持するために不可避的に引き起こしてしまう現象なのである。
・なぜなら、「これこれは【異質なもの】、これこれは【異質でないもの】」を積極的に区別することで、既存の秩序を保つための「認識」や「定義」を日々刻々とアップグレードしているからだ。

・たとえばわれわれの肉体は、365日、ウィルスが出入りしている。
・だから「免疫システム」は、われわれの肉体の秩序(平穏)を維持するために、日夜フル稼働で【異質なもの】と【異質でないもの】を区別しながら後者に該当するものを排除してくれているのである。
・この「免疫システム」は、「社会」という秩序における、「孤独な人々(異質なもの)」と「平均的な人々(異質でないもの)」の構造とよく似ている。

・残念ながら多くの場合、「孤独な人々(異質なもの)」は、「平均的な人々(異質でないもの)」に排除されてしまう。
・「われわれからみておまえはオカシイのだ」と認識した人々は、そんなオカシイ相手を、ときには「フツウの人間」に戻してあげようとするし、またときには、完全にその集団から力づくで葬り去ろうとする。こうした運動現象の一種を、われわれは「いじめ」と呼ぶこともある。
・これが悲しき動物の性である。
・生物学者の日髙敏隆氏が、口を酸っぱくして、「人間も”しょせんは動物”であるという事実認識を受けいれなければ建設的な議論はできない」という言葉の重みを感じる。
・ところが、人間の世界はなんとも不思議である。
・じつは、「平均的な人々(異質でないもの)」の「文化」を牽引してきたのは、他ならぬ「孤独な人々(異質なもの)」なのである。
・たとえば、あなたの好きなアーティストやミュージシャンを思い浮かべればいい。
・彼らの人生は、はっきり言って「まともじゃない」。
・なにしろ、安定した生き方(サラリーマン)を捨ててまで、将来どうなるのか見通しのない人生を選んでしまっているのだから。

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Sex Pistols – Sid Vicious, John Lydon, Steve Jones and Paul Cook after signing A & M record deal
Various – 1977
・そして皮肉なのは、「まともな人生を送りなさい」とか「安定した仕事に就きなさい」だとか言うパパ、ママ、学校の先生たちにもまた、彼らが否定しにかかる「まともじゃない生き方」をする人々の作品に酔いしれていたりするのだ。

・わたしは以前、「ジョン・レノン」を尊敬している男性と出会ったことがある。
・自分自身もまた、ビートルズは大好きだし、ジョン・レノンの作詩センスや世界観を心からリスペクトしている。
・しかしその男性は、わたしとジョン・レノンの話にひとしきり花をさかせたあと、家庭の話で「息子には安定した人生を……」と言い出した。
・わたしは正直、驚きを隠せなかった(いや実際は隠したけどね)。
・数分前まで、あんなに嬉しそうに「自分を持っている人間はカッコイイよな~!」と言っていたはずなのに、まるでさっきまで別人だ。少なくともわたしの目にはそう映った。

・これはべつに、その男性を非難しているわけではない。
・話は簡単で、「息子にはまともな暮らしを……」というあのセリフは、常識的に考えて、我が子を大事に思うからこそ、前途多難な人生を歩んでほしくないというまごうことなき親心に由来するのだろう。
・ようするに、「ウチはウチ、ヨソはヨソ」というわけである。
・しかしだからこそ、わたしはここに世の中の皮肉を見出してしまうのである。
・つまりわれわれは、「孤独な人々(異質なもの)」を事実そのように見る一方で、そんな彼らの生み出した「文化」を人生に無くてはならない精神的な支えにして生きているのだ。
・まさしく皮肉ではないか。
・「他者からの理解を得られず、ときには理不尽な境遇にさらされる人々が、それでも自分の信ずる道を歩み、最後には勝利する」――しばしば物語を通じてこうした展開が描かれ、観客の感動を呼ぶのは、じつはわれわれが、「信念を貫くことの大切さ」を「心」では理解しながらも、「頭」ではそれを実際に行動に移すことができないと考えているからなのではないだろうか。
・だからわれわれは、自分たちの理想の姿――「孤独と信念と勝利」――を物語に託し、虚構の世界で、現実のプレッシャーに晒される「精神」を解放して「浄化(ピュリファイ)」されようとしているのだ。
・その文脈で捉えるならば、「物語」とはまさに、「平均的な人々」の「現実逃避」に他ならない。
・だが、もしも「物語」が、自分自身の在り方を問い直し、現実の自分を変えようという勇気を観客に与えることができたのならば、その作品は、もはや単なる「現実逃避」の手段ではなく、誰かの現実を変えてしまいうるほどの「力」があるということになる。
・現実逃避の手段なのか?
・それとも現実を変えるほど「他者に影響を与える」ほどの力をもつのか?
・おそらくどちらも作品の在り方としては正解である。そこに正解不正解などないのだろう。
・だが興味深いのは、作品の価値が、基本的には作り手側の力量に左右される一方で、ときには作品を観る側の心の在りようにも支配されもするということだ。
(おわり)
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