【ネタバレ漫画批評】『チェンソーマン』第30話【「イカれたやつら」のラプソディー】

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今日の名フレーズ

読書体験を重ねることで、凡庸な作品や、話にもならない愚作を見る目が養われる。

(『小説作法』スティーブン・キング/訳:池 央耿)

第30話「もっとボロボロ」

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レビュー:80点

作:藤本タツキ

所収:週刊少年ジャンプ /2019/第33号

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第30話のポイント

 

・「最強のデビルハンター」を自称する飲んだくれのオッサン

・名前はまだわからない。

・デンジは不死身。パワーは半分不死身。そんな彼らだが、しょせんは戦闘のアマチュア。オッサンには手も足もでず、ボコボコにされてしまう。

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・……ちょっとまて、デンジってけっきょく「不死身」だったの?

・オッサン、さらりと驚愕の事実を言ってくれる。

 

・もちろん、これまでのエピソードを通じてみれば、デンジが「不死身っぽい」ことは何となく察しはつくが、それはあくまでも「まるで不死身の”ようだ”という意味での「比喩」にとどまるものであり、作中で「デンジは不死身”である”という事実が公式に確定されたことはなかったはずだ。

・当たり前だが、比喩と事実はまったく意味が違うのだ。

・その点をふまえてみると、デンジの「不死身設定」の唐突な開示は、少々戸惑いを隠せないのが本音である。

 

・この作品、説明不足感が否めないのは今にはじまったことではないので、ここまでくるとさすがに「そこはご愛嬌」で済ませるべきなのかもしれない。

・なにしろ、連載がはじまってから30回目なのだから。

・その間に、いろいろと得たものもある。

 

・たとえば「ホテルの悪魔編」以降、「続きが気になる引きの演出」が巧みになってきている。

・それにくわえ、この作品には、「変なオッサン」「目の死んだオッサン」「超つよいオッサン」などが色々出てくる。

・わたしはこういう手合いが登場する作品が大好物である(変な意味じゃないよ)。やはり少年漫画だからこそ「オッサン」が必要なのだ。「オッサン」の放つ独特の存在感は、作品にアクセントを与えてくれる重要な要素なのだ。

 

・さて、場面を切り替えて早川アキの病室。

・姫野の死を嘆いている暇もなく、アキのもとに公安の二人組がやってくる。先だってマキマと一緒にいた二人だ。

・彼らはアキに、その後の「身の振り方」をたずねる。

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・アキの寿命は、悪魔との契約により、わずか数年しか生きられない。だから、いっそ今回の事件を機に公安を辞職して余生を過ごすのもひとつの選択だろう。あるいは、公安デビルハンターを続投する選択もある。ただしその場合には、より強力な悪魔と契約して組織に貢献しなければならないという。

・公安の二人は、心身ともに疲弊するアキに、残酷な選択を迫る。

・選択。そう、選択である。かねてより論じているが、「選択」は物語に不可欠な要素である。どのような思いでその決断をしたのか? 真のドラマはそこにあるのだ。

 

・アキは、デビルハンターの続投を即決断した。

・なぜなら彼は、自分の存在意義を、「失った家族の仇」に見出しているからである。

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・早川アキというキャラクターは、デンジとは違い、信念の固い人物として描かれている。

・それゆえ、今回の公安からの提案に対するアキの反応も、十分に納得がいくし、カッコイイ

・早川アキのほうがデンジよりも主人公然としているのは皮肉である。

 

信念がないデンジと、信念に生きる早川アキ

・やはり、こういう「選択」を迫られる場面では、キャラクターの「人となり」で差が出てしまう。

 

・そして今回の早川アキと公安のやり取りは、なかなかに印象的である。

・公安の二人は、迷わずデビルハンターの続投を決断する早川アキのことを、侮蔑にも近い態度を向ける。

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・そう、思い返してみれば、いま公安デビルハンターには、「まともなやつ」がいないのだ。

・銃の悪魔の襲撃以前は、「まともなやつ」はいたかもしれない。しかし、そういう手合いは、すでに公安を去っている

・いま残っているのは、マキマやデンジも含め、あますところなく「イカれたやつら」だけだ

 

・事実マキマも、まさにいま、周囲からの疎外感を味わっているところである。

・このように考えると、この作品からは、「まともでない」人々の孤独や哀愁を感ずることもできよう。

・奇しくもわたしがコラム記事『のうぢる』で論じた内容にそっくりそのまま当てはまる(【ブレない信念をもつ人間の魅力はどこにあるのか】)。

 

・しかし、「まともでない」とレッテルを貼られた人々が、力を合わせて強大な敵に立ち向かう――なかなかの胸熱展開ではないか。最高である。

 

(第31話に続く……)

脳味噌から「知」をひねり出すコラム:「孤独な人々」と「平均的な人々」

 

・以前のコラム【ブレない信念をもつ人間の魅力はどこにあるのか】でも論じたが、確固たる信念をもつ人々は、人間的な魅力にあふれ、尊敬を集めるが、その一方で、成功を収めるまでは、周囲から理解されず冷遇され、大いなる孤独を味わってきた。

・「理解者」がいないという事実ほど、辛く残酷なこともない。

 

・人間は社会的な動物である。他者との協調を重んずる集団的傾向が遺伝子レベルで刻まれている。

・よく「日本人は集団志向」「欧米人は個人主義」なんて言われるが、それは真っ赤なウソである。レッテル貼りもいいところで、この種の議論は戦後の知識人が敗戦のコンプレックスからつくりあげた幻想に過ぎない。

・結論をいえば、古今東西、人種や国に関係なく、人間は「集団」を重んじてきたのである。だからこそ、他者との協調性、つまり「相手に理解されること」は第一義的に重要なのである。

 

・しかしそんななかで「孤独な人々」は、しばしば「相手に理解される」という条件を満たせないアウトローな存在である。

「そんなことできるはずがない」「あいつはクレイジーだ」「あいつには関わらないほうがいい」とか、まあとにかく好き放題言われるのである。

 

・なんとも可哀想な話だが、じつはこのような「異質なものを排除しようとする」動きは、集団志向の動物である人間が、「社会」という集団秩序を維持するために不可避的に引き起こしてしまう現象なのである

・なぜなら、「これこれは【異質なもの】、これこれは【異質でないもの】」を積極的に区別することで、既存の秩序を保つための「認識」や「定義」を日々刻々とアップグレードしているからだ。

 

・たとえばわれわれの肉体は、365日、ウィルスが出入りしている。

・だから「免疫システム」は、われわれの肉体の秩序(平穏)を維持するために、日夜フル稼働で【異質なもの】と【異質でないもの】を区別しながら後者に該当するものを排除してくれているのである。

・この「免疫システム」は、「社会」という秩序における、「孤独な人々(異質なもの)」と「平均的な人々(異質でないもの)」の構造とよく似ている

 

・残念ながら多くの場合、「孤独な人々(異質なもの)」は、「平均的な人々(異質でないもの)」に排除されてしまう

・「われわれからみておまえはオカシイのだ」と認識した人々は、そんなオカシイ相手を、ときには「フツウの人間」に戻してあげようとするし、またときには、完全にその集団から力づくで葬り去ろうとする。こうした運動現象の一種を、われわれは「いじめ」と呼ぶこともある。

 

・これが悲しき動物の性である。

・生物学者の日髙敏隆氏が、口を酸っぱくして、「人間も”しょせんは動物”であるという事実認識を受けいれなければ建設的な議論はできない」という言葉の重みを感じる。

 

・ところが、人間の世界はなんとも不思議である。

・じつは、「平均的な人々(異質でないもの)」の「文化」を牽引してきたのは、他ならぬ「孤独な人々(異質なもの)」なのである。

 

・たとえば、あなたの好きなアーティストミュージシャンを思い浮かべればいい。

・彼らの人生は、はっきり言って「まともじゃない」

・なにしろ、安定した生き方(サラリーマン)を捨ててまで、将来どうなるのか見通しのない人生を選んでしまっているのだから。

Mandatory Credit: Photo by Richard Young/REX/Shutterstock (74937l)
Sex Pistols – Sid Vicious, John Lydon, Steve Jones and Paul Cook after signing A & M record deal
Various – 1977

 

・そして皮肉なのは、「まともな人生を送りなさい」とか「安定した仕事に就きなさい」だとか言うパパ、ママ、学校の先生たちにもまた、彼らが否定しにかかる「まともじゃない生生き方」をする人々の作品に酔いしれていたりするのだ。

 

・わたしは以前、「ジョン・レノン」を尊敬している男性と出会ったことがある。

・自分自身もまた、ビートルズは大好きだし、ジョン・レノンの作詩センスや世界観を心からリスペクトしている。

・しかしその男性は、わたしとジョン・レノンの話にひとしきり花をさかせたあと、家庭の話で「息子には安定した人生を……」と言い出した。

・わたしは正直、驚きを隠せなかった(いや実際は隠したけどね)。

・数分前まで、あんなに嬉しそうに「自分を持っている人間はカッコイイよな~!」と言っていたはずなのに、まるでさっきまで別人だ。少なくともわたしの目にはそう映った。

 

・これはべつに、その男性を非難しているわけではない

・話は簡単で、「息子にはまともな暮らしを……」というあのセリフは、常識的に考えて、我が子を大事に思うからこそ、前途多難な人生を歩んでほしくないというまごうことなき親心に由来するのだろう。

・ようするに、「ウチはウチ、ヨソはヨソ」というわけである。

 

・しかしだからこそ、わたしはここに世の中の皮肉を見出してしまうのである。

・つまりわれわれは、「孤独な人々(異質なもの)」を事実そのように見る一方で、そんな彼らの生み出した「文化」を人生に無くてはならない精神的な支えにして生きているのだ。

・まさしく皮肉ではないか。

 

・「他者からの理解を得られず、ときには理不尽な境遇にさらされる人々が、それでも自分の信ずる道を歩み、最後には勝利する」――しばしば物語を通じてこうした展開が描かれ、観客の感動を呼ぶのは、じつはわれわれが、「信念を貫くことの大切さ」を「心」では理解しながらも、「頭」ではそれを実際に行動に移すことができないと考えているからなのではないだろうか。

・だからわれわれは、自分たちの理想の姿――「孤独と信念と勝利」――を物語に託し虚構の世界で、現実のプレッシャーに晒される「精神」を解放して「浄化(ピュリファイ)」されようとしているのだ。

・その文脈で捉えるならば、「物語」とはまさに、「平均的な人々」の「現実逃避」に他ならない。

 

・だが、もしも「物語」が、自分自身の在り方を問い直し、現実の自分を変えようという勇気を観客に与えることができたのならば、その作品は、もはや単なる「現実逃避」の手段ではなく、誰かの現実を変えてしまいうるほどの「力」があるということになる。

 

現実逃避の手段なのか?

・それとも現実を変えるほど「他者に影響を与える」ほどの力をもつのか?

・おそらくどちらも作品の在り方としては正解である。そこに正解不正解などないのだろう。

・だが興味深いのは、作品の価値が、基本的には作り手側の力量に左右される一方で、ときには作品を観る側の心の在りようにも支配されもするということだ。



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石山 広尚(いしやま ひろなお) 1991年うまれ。 札幌在住のライター。 一時期は社会学の研究者を志していたが、ひょんなことから友人と同人誌をつくることになり、それがきっかけで「創作」の世界にどっぷりハマる。小説サークルを主宰し、「批評」の重要性を痛感する。 ・大学院時代の専門:思想史と社会学 ・好きな作家:H.G.ウェルズ、オー・ヘンリー、ポール・ギャリコ、スティーブン・キング ・好きな映画:ゴッドファーザー、第三の男、ターミネーター2